みえない宇宙の力

投稿日:2021/07/26

1.エイトヒーリング

 令和2年4月、私たちは白鳥哲監督の映画を見るために友人の家に5人で集まった。小さなプロジェクターから白い壁に映し出される映像は、衝撃的だった。祈りにどれ程の力があるのか、監督の強い思いが見事に描写されていた。特にリン・マクタガートの祈りの活動には強烈な印象を受けた。祈りの効果を科学的に実証しようという彼女の試みは、多くの人の心を打ち世界中にサークルができていた。

 私は、リン・マクタガートを知っていた。かつて彼女の『フィールド:響き合う生命・意識・宇宙』を読んでいた。それは世界中で行われている意識の力を証明する実験を、精力的に集めた本だった。特に私の心をひきつけたのは、過去を書き換える実験だった。意識は過去に影響を与えることができるのか?

 ロバート・ジャンは、乱数発生器を利用した。短時間に膨大な数の乱数を発生させる。例えば奇数と偶数に分ければ、必ず50対50になるはずだ。乱数が発生している間、念の強い人がどちらかに偏るように意図する。するとわずかだが結果に影響を与えられる人が見つかった。48対52のように偏りはごくわずかだったが、統計的にはあり得ない誤差が生じた。

 実験はこうだ。意図を送るよりもはるか前に乱数を発生させた。その記録テープをコピーする。コピーを金庫にしまう。さて実験の日がやってきた。被験者にはすでに乱数が発生されていることは知らせていない。彼はいつものように乱数発生器に念を送る。時間が来て、結果を調べると、念を送られたテープはいつものように誤差が生じていた。金庫のテープを取り出して調べると、全く同じ結果が記録されていた。

 意図は、過去を書き換えたのだろうか? まるで量子力学の実験のように、人が存在することが結果を決定するのだ。この実験の科学性は未だに議論されているようだが、議論は専門家に譲ろう。

 その後のリンの実験を私は調べた。リンは、意図の力を客観的に証明することよりも、実験に参加した人たちの心の変化の方に興味を移していた。平和の意図を送って地域の紛争を減らそうとする実験では、結果よりも参加者の意識の変化に驚いた。不眠症が治り、夫婦仲が良くなり、仕事上の悩みが減った。そんなポジティブな感想が次々とリンのもとへ送られてきたのだ。

 リンは、パワーオブエイトという小さな祈りのグループを世界中に作った。たった8人の祈りのグループが、大きな成果を上げていた。祈りには手順がある。ユーチューブに、リンとエリック・パールの対談が上がっていた。

エリックは、かつて日本にもリコネクションというブームをもたらした人だ。会場に現れる時、手にコーラを持ってにこやかに現れ、参加者の病気を次々と癒していく青年の姿は、私たちを魅了した。その彼が、ユーチューブではちょっと老けて見えた。あれから10年以上たっているのだ。

祈りの手順が大切だ。エゴから出た祈りは効果が少ない。場合によっては、クライアントとあなたとの間にカルマ的関係を作ってしまう。ヒーラーは高次のエネルギーの導管になった時、最も高いエネルギーを流すことができる。その時奇跡的治癒が起きる。同時にあなたも同じ高次のエネルギーを受け取る。祈りの核心は、いかにエゴを離れて高次のエネルギーと繋がるかにある。二人の対談は、そのことを伝えていた。

私は、早速シャスティーナの仲間たちに祈りのグループを作ろうと持ち掛けた。令和2年6月、新型コロナウイルスが猛威を振るいだし、日本は緊急事態宣言の真っ最中だった。私たちは、ZOOMで集まることにした。

誘導瞑想しながら、各自がグラウンディング、センタリングし、ハートの聖なる空間・聖心に入っていった。そこで参加者の集合意識体を作りユニコーンヒーリングを行うことにした。エゴの入り込む余地を極力排除して、自分たちをユニコーンのエネルギーの導管として使うことにした。実際にやってみると、参加者は予想以上のエネルギーの流れを体感した。全身汗だくになる人もいた。手がびりびりとしびれるようなエネルギーに包まれたり、身体が光に包まれるのを実感した。中には手のひらに金粉が現れる人もいた。

私は、この手順をエイトヒーリングと名付けた。

2.奇跡的治癒

 ZOOMでエイトヒーリングを始めてみると、その効果に度肝を抜かれた。初めてのクライアントは、私の患者だった。

ちょうどエイトヒーリングの準備をしている頃に、国立病院から在宅診療の申し込みがあった。50歳代女性、卵巣がんの末期だった。余命は2,3週間、急いで退院したい様子だった。退院予定日は6月22日、担当のケアマネージャーや訪問看護ステーションは既に決まっていた。実は別の在宅専門診療所が引き受けるはずだったが、都合が悪くなり、患者宅のすぐ近くの私たちが選ばれた。いつもは病院で開かれる退院前カンファレンスに参加していたが、直前の開催に私の日程が合わなかった。私は、しばらく眠れない日が続くなと覚悟した。

 ところが、昏睡になったため退院が延期になったと連絡があった。その数日後、主治医から直接電話がかかってきた。

 「意識は戻りました。まだ会話はできません。失語症があります。脳MRでは、異常がなく、昏睡の原因はわかりませんでしたが、がんの転移ではありませんでした。食事がとれないので、中心静脈栄養を入れています。6月27日に退院したいのですが、よろしいですか?」

 「大丈夫ですよ。」

 主治医はかなり慌てているようだった。

 「もしかしたら、今月いっぱいかも知れませんが、よろしいですか?」念を押した。

 私は、いくつか病状を確認し、中心静脈カテーテルは抜いてもらうように頼んだ。終末期では栄養よりも水分の入れすぎの方が厄介だった。

 退院するとすぐ私は訪問した。部屋には、病人の他にご主人、ケアマネージャー、看護師がいたが、すぐ場所を開けてくれた。彼女は、うどんを食べていた。

 「うどんが食べられるのですね。ご主人が作ったのですか?」

 私はびっくりした。主治医から聞いていた病状とあまりに違っていた。

カウンター越しの台所にいたご主人が返事をした。

「いやぁ、セブンイレブンのですよ。」

私は、祈りのグループのことをご主人に紹介した。

「明日仲間がZOOMで集まって、祈りのエネルギーを送りたいのですが、よろしいですか?」

すると、ご主人は打ち明けてくれた。

「私たちの親しい友人が外国にいるのですが、彼女は音楽家なのですが、祈りを送ってくれています。是非お願いいたします。」

 こうしてエイトヒーリングに仲間が集まり、祈りのエネルギーを送った。彼女の回復は目覚ましかった。会うたびに言葉がはっきりとしてきた。すぐに一人で寝返りが打てるようになり、1ヵ月もすると歩けるようになった。退院直前には腫瘍で盛り上がっていたお腹が、かなり平らになってきた。3ヵ月後、腎瘻カテーテルと人工肛門閉鎖のため、本人が国立病院の主治医に電話をかけた。

 「先生は、びっくりしたみたいです。私が話し終えると、先生の方から『あなたは本当にご本人なのですか?』って尋ねられたのです。『そうですよ。私です。』って答えました。」

 その後彼女は国立病院に再入院し、開腹手術を受けた。残っていた卵巣腫瘍を全部取り切り、腎臓カテーテルを抜去し、人工肛門を閉鎖した。すべてが順調に進んだわけではなかったが、彼女のがんは完全に消え去っていた。

 私は1年間、彼女の回復を見守った。ゆっくりではあったが、確実に回復した。腫瘍マーカーも着実に減少し、ついに正常になった。きっと国立病院の先生は、抗癌剤が奇跡的に効いたと思うのだろうなと、私は思った。

エイトヒーリングの効果で良くなったと思いたかったが、実際には、彼女は自宅に着く前から治り始めていた。病院では臨終直前だったのに、1時間後自宅に着いた時には、うどんが食べられるほど回復していたのだ。

 奇跡的治癒。それは本人が引き起こしている。周りで治療に携わる人たちは、自己治癒のサポートをしているだけなのだ。まさに絶妙のタイミングで、奇跡が起きる。その力の源は宇宙の精妙な配材だ。誰一人欠けても奇跡は起きないだろう。エゴの力で奇跡を引き起こすことはできない。私は、貴重な奇跡的治癒の現場を目撃できたことを、神に感謝した。

3.怒りとがん

 友人の医師から電話がかかってきたとき、私たちは訪問診療の車の中だった。

 「おれ、がんの末期みたい。」

 「何を突然言っているのだい。どんな具合なの?」

「1ヵ月前から食べられない。だるくて、だいぶ痩せた。きっと胃がんの末期だよ。」

 「どんな検査をしたの?」

 「何にもしていない。」

 「医者なのだから、検査ぐらいしてみたら?今からでもうちのクリニックに来て、CT撮ってみたら?」

 私は友人にすぐさまクリニックに行くように伝えた。クリニックにいる非常勤の先生にも連絡を付けた。1時間ほど経った頃、先生から電話がかかってきた。

 「今CTを撮り終わったのですが、ご本人に見せてもよいかどうか相談したいのです。」

 「どんな所見なのですか?」

 「肝臓に腫瘍がたくさんあります。胸水もたまっています。膵臓がんかも知れません。見せても良いですか?」

 「見せない訳に行かないですよね。見せてあげてください。」

 翌日友人から電話があった。

 「あれからすぐ病院に行って、検査を受けてきた。診断は同じだった。もう手術もできないし、抗癌剤も効かないかも知れない。おれ、今月いっぱいで診療所を閉めるよ。治療は広島に帰ってからするから。患者さんの紹介状を書くから、在宅患者を頼むよ。」

 まったく意気消沈していた。月末までわずか2週間しかなかった。私が様子を見に行くと、疲れ果てていた。カルテが山積みになっていて、紹介状を夢中で書いていた。

 「おれ、どんどん歩けなくなる。往診もいけなくなってきた。今月いっぱいも無理かもしれない。」

 かける言葉もなかった。結局月末を待たずに閉院して、故郷の広島へ帰っていった。私は何度も携帯電話に連絡したが、応答がなかった。広島の所在も分からなかった。3ヵ月後、医師会に訃報が届いた。

 彼とは数年来新宿界隈で飲み歩く仲だった。心に強烈な怒りを抱えていた。誰かに打ち明けずにはいられない程、張り裂けるような怒りだった。広島で幸せな新婚生活を送っていた。初めての子供は男の子だった。ところが、わずか3歳の時に交通事故で亡くなってしまった。傷心の彼は、義父に誘われるままに東京に出てきた。義父の診療所を手伝うためだった。

 ある日、家族の集まりでぽろりと義母が漏らした。

 「おしゃべりに夢中にならなかったら、あんなことにならなかったのにねぇ。」

 おしゃべりって何の話だ。彼は疑問に思った。妻は家の前でおしゃべりに夢中だった。子供はちょうど止まっていた車の下に入り込んでしまった。何も知らない車が発進し、轢かれてしまったのだ。彼は事故の真相を何も知らされていなかった。交通事故だとばかり思っていたのだ。怒りが天を突いた。遂に彼は離婚した。それだけではない。財産分割のために裁判を起こし、最高裁判所まで争った。裁判に勝っても彼の怒りは治まらなかった。

 やがて彼は幼馴染と再婚した。私たちは何回か一緒に夫婦で飲みに出かけた。優しく謙虚な奥さんだった。彼は有頂天だった。新しい奥さんと海外旅行によく出かけた。新しい診療所も順調だった。自分の論文が学会誌に載ったと見せてくれた。しかし、彼は新しい裁判を起こしていた。彼の正義感が、妻や義母たちが事実を隠していたことをどうしても許すことができなかった。そして、膵臓がんになった。

 数年後、私はあるワークショップに参加した。瞑想して会いたい人に会うワークだった。彼が出てきた。何年ぶりだろう。私は彼を抱きしめた。懐かしかった。元気そうだった。その笑顔の何と嬉しそうなこと。私は泣いた。泣いて彼を抱きしめた。すると突然彼が砕け落ちてしまった。足元に彼の骨が散乱していた。骨はさらに崩れて、地面を突き破って下へ下へと落ちていった。私は呆然と沈んでゆく彼を見送っていた。

 「追ってはいけないわよ。」

 講師が声をかけてくれた。私は頷いた。会えただけでもうれしかった。

 「追わないで。彼には彼の運命があるのよ。」

 友人は正義感の強い人だった。その正義感のゆえに身を滅ぼしたともいえる。しかし、実際は許しを体験するために地上にやってきたのだろう。奥さんはカルマ的な縁で彼の望みを達成するために役割を演じただけだ。だが、彼は自分の本当の目的に気づくことができなかった。こうして真実の自分に気づくまで、私たちは輪廻を繰り返すのだ。

4.降りていってはいけません

 「共感と同情は違う。共感しても良いけど、同情してはいけない。」

 並木先生はよくそう教えてくれた。同情とは、可哀想だと思う心だ。相手を弱い人、不幸な人、力のない人と思い、憐れみを感じる。それは、自分を高いところに置き、相手を低いところに見る分離の視点だ。分離こそ3次元の地球の波動である。だが、私たちは同情心こそ大切な心だと教えられ、深く深く染みつけてしまっている。同情こそ愛だと思い込んでしまっている。しかし、それが不幸の始まりなのだ。

 シャーリープトラは、お釈迦様に尋ねた。

 「師よ、この世の中が不幸に満ちているのは、かつてあなたの心が迷っていたからですか?」

 「シャーリプトラよ、お前にはこの世の中が不幸に満ちて見えるのか? そうだとすればお前には高下の心があるからだ。私の国土は未だかつて不幸であったことはなく、常に安穏であって、こんぱらげの花が咲き乱れ、天女が踊り舞っている。」

 高い低いの心。それが分離の視点だった。経典は2500年の昔からそのことを教えている。

 リーディング・チャネリングのワークショップの時だった。参加者の先祖と繋がるワークがあった。私は、亡くなった人との対話が苦手だった。けれども誰も手を上げる人がいないので、思い切って手を上げた。私は、皆の前に出て心を落ち着けた。意識をグラウンディングして、アンテナを高く延ばす。参加者の先祖と交流しようとした。

 すると足元に誰かいるのが分かった。縮こまって辛そうな魂だった。交流を始めると、彼は線路に飛び込んで自殺した魂だった。

 並木先生が訪ねた。

 「その人は、この参加者の先祖ですか?」

 「いえ、違うようです。」

 「だったら、リーディングを止めて戻ってきて。」

 「戻れません。」

 「どうして?」

 「彼を救いたいから。」

 「今日のテーマではないから、戻ってきて。」

 私は戻ってくることができなかった。寒さに凍え、縮こまって苦しむ魂を見捨てられなかった。結局、大天使ミカエルに助けてもらってこの魂を光の国に連れていってもらった。

 「(周波数の)高いところから、降りていってはいけないのですよ。降りていけば、あなたも溺れるだけなのです。高いところに留まって、相手の話に共感するのです。決して同情してはいけないのです。」並木先生が、丁寧に教えてくれた。

 医療関係の仕事をしていると、この簡単なことを守ることが難しかった。医療者と患者。それは、助ける人と助けられる人との関係だった。だが、分離の視点があれば、宇宙の力は働かない。私は自分の究極の弱点を知った。

 自分が分離の視点に立っているかどうか、どうしたら気づけるだろうか。

 「あなたは、相手を手放すことができますか?」

 「あなたは、相手を放っておくことができますか?」

 「あなたは、相手の判断を100%受容することができますか?」

 簡単な質問が、自分の心のありかを教えてくれた。

5.看取り

 その人は、区民健診にやってきた。健診の結果貧血が見つかった。私は、胃内視鏡検査を勧めた。すると大きな胃がんが見つかった。すぐさま総合病院に紹介状を書いた。しばらくすると、お嬢さんと二人で外来に戻ってきた。

 「検査の結果はいかがでしたか?」

 「末期がんでした。肝臓に転移して手の施しようがないそうです。緩和ケア病棟を紹介されました。」

 二人は深刻な面持ちだった。お父さんは緊張で震えていた。

 「苦しんで死ぬ人はいません。死ぬときは、本当に安らかな気持ちになるのです。地上の役割を終えて、天国に帰っていくのですから。」

 私は死について話をした。

 「まだやり残したことがあるのですか?」

 「いやぁ、この年になってもう十分やりたいことはやってきました。ただ、苦しむのじゃないかと心配だったのです。」

 親一人、子一人の場合が、一番心の絆が強かった。子供は、どんなことがあっても親に生きていてほしいと願う。親が逝ってしまったら、天涯孤独になってしまうと言う恐れが強かった。彼女もそうだった。恐れが強いほど、逝く人は苦しむ。

 彼女は父を連れて、いろいろな病院を受診した。だが、結果はみな同じだった。残された選択肢は、自宅で看取るか、緩和ケア病棟で看取るかしかなかった。娘は、父親と離れられなかった。しかし、仕事を抱えているので、24時間父の面倒を見ることもできなかった。私たちは、ぎりぎりまで自宅で過ごし、手に負えなくなった時に緩和ケア病棟に入院する手はずにした。

 父は、徐々に食べられなくなった。足は細くなり、1階のトイレに行くのが難しくなった。ポータブルトイレを借りて、自分で用を足した。なるべく娘の手を煩わさないように、ひたむきな努力をした。娘は会社の昼休みに戻ってきて、父の介護を続けた。

吐血もなければ、腸閉塞もなかった。がんの痛みもほとんどなかった。鎮痛剤はほとんど使わなかった。しかし、身の置き所のない倦怠感はどうにもならない。

「痛がっているのじゃないですか? 苦しいのを我慢しているのではないですか?」

娘は、父を心から気遣って尋ねた。父も娘の手を煩わすまいと必死だった。体力は徐々に落ちていく。別れの時が近づいていた。娘は2週間の介護休暇を取った。

私は、朝に夕に訪問した。父は、見るからに苦しそうに見えたが、返事はいつも大丈夫だった。

私が訪問すると、娘はたくさんのことを話した。お茶を出してくれ、アイスを出してくれた。母を看取った時のこと。父の介護の工夫。仕事のこと。

そして、父は静かに息を引き取った。連絡を受けると私はすぐに自転車で駆けつけた。娘の友人と3人で看取った。

「最後の2日間は本当に苦しそうだった。」娘は介護の辛さを打ち明けた。私たちは、冷たくなっていく父の体を囲んで、1時間ほど話し合った。

「死は旅立ちです。苦しい肉体からの解放です。永遠の別れなどありません。お父さんはいつもあなたと一緒にいますよ。これからあなたはそれを実感するでしょう。」

友人も同じことを言った。徐々に娘の気持ちは安らいでいった。

「やりとげました。もう大丈夫です。満足です。」

しばらくして、街中で娘を見かけた。颯爽と自転車をこいで、明るい笑顔だった。

「あっ、先生。」通り過ぎてしまってから、娘は気づいた。

看取りが終わって、私はどっと疲れてしまった。いつもなら一晩眠れば回復するはずだったのに、3日間疲労が続いた。鉛のように体が重たかった。

もしかして? 私は足元を見た。父がそこにいた。

「なあんだ、おとうさん、ここにいたのですか。」

私は笑ってしまった。当に天国に旅立ったと思っていたのに、父は私にしがみついていたのだ。どおりで重たいわけだった。さあ、どうやって天国に行ってもらったらよいのだろうか? 私は、大天使ミカエルを呼んだ。大きな箱を作って、ミカエルに天国に連れていってくれるように頼んだ。父が、次第に浮かび上がって天上に上がっていくのが感じられた。

父が去ると、急に体が軽くなった。突然元の自分の体に戻った。

並木先生に話すと、笑って教えてくれた。

「それって、憑依だったのだよ。」

「そうなのですけど、私にも霊を上げることができて、嬉しかったのです。」

今までは、特殊な能力のある人にしかできないと思っていたことが、いとも簡単にできたことが嬉しかった。それは、誰にでもできることだったのだ。

6.夢

 平成10年ごろだった。私は夢を見た。夢の中でまだ3歳くらいの姪と遊んでいた。姪はかわゆく溌溂としていた。遊びながら突然私は、姪の左目に手を突っ込んで取り出してしまった。目の玉が私の手のひらで転がっている。私は驚いて目の玉を元に戻そうとした。ところが目の玉はうまく元に戻らない。「うわーっ、一体なんてことをしてしまったのだ。」夢の中で、私は冷や汗を流して狼狽えていた。布団の中でばたばた暴れながら、目が覚めた。あーっ、夢だったのだ。夢でよかった。

 あまりに鮮烈な夢だったので、私は友人の精神科医に夢の意味を尋ねた。

 「3歳くらいの子供なのですね。それは、3年以内の出来事ですよ。目の玉は生命を表わします。あなたがこれからやろうとしていることは、生命を奪ってしまうような行為だと、夢が警告しているのではないですか? それが何を意味しているのか、ぼくには分らないけど。」

 私には思い当たることがあった。1年前常勤の内科医を雇った。採用前の面接資料では、とても優秀な人だった。台湾出身だが、日本の医学部を卒業し、英語と中国語が堪能だった。都内の有名中堅病院の内科医長をしていた人だ。こんな素晴らしい人が私たちの小さな個人病院にどうして応募したのか、不思議なくらいだった。面接も高評価だった。

 ところが、この人は全然働かない人だった。午前中たった6人診察しただけで、今日はたくさん働いたなとつぶやいていた。午後は病棟回診をさっさと済ますと、部屋でゆっくり読書をする。おまけによく休んだ。

毎月のように、台湾の母の具合が悪いので、休ませてくださいと2,3日の休暇を取った。ある時、台湾で大地震があった。彼の実家の台北も被害を受けていた。

 「先生、ご実家は大丈夫ですか?」私は尋ねた。

 「実家? 台湾のことですか?」

 「そうですよ。すごい地震があったじゃないですか?」

 「地震? そうですね。叔母の家が少し被害にあいました。」

 全然台湾の地震には興味がないようだったのが、不思議だった。

 当時個人病院は火の車だった。医療崩壊が叫ばれる前のことだった。厚労省は、200万床ある日本の入院ベッドを100万床にすると豪語していた。小さな個人病院が次々と閉院していた。私は昼間外来と病棟をこなし、夜当直をし、休日診療もするといった状態だった。夜勤は大学の研修医が埋めてくれていたが、しばしば電話一本で休んだ。

 契約更新の日が近づいていた。事務長と私はどうしようか相談した。私は絶対更新しないと息巻いていた。そして夢を見た。「生命を奪う」という言葉に引っかかった。どういう意味だろう。皆目見当がつかなかったが、様子を見ようと思った。

 面接の日、内科医から提案があった。

「あと半年ここで勤務させてください。」

自分があまり働いていないという自覚だけはあるようだった。これからはもっと一生懸命働きますからというニュアンスが感じられた。

 半年後、内科医が嬉しそうに話しかけてきた。

 「高田馬場に素晴らしい物件が見つかったのですよ。数年前から狙っていたのですが、オーナーがどうしても貸してくれなかったのです。」

 どうやら開業するらしい。彼は夢中でしゃべっている。

 「駅前だし、あそこは中国人や外国人が多いので開業にはうってつけなのです。突然オーナーの考えが変わったらしくて、賃貸の案内が来たのですよ。私が一番乗りでした。」

 興奮は止まらない。

 私たちはささやかな送別会を開いた。そこで分かったのだが、彼は離婚問題で追い詰められていた。一人娘は歯学部に通っており、学費がかかった。離婚、再婚、娘の卒業、開業とようやく1年半で彼は新境地に到達した。やっと、目の前がぱーっと晴れたのだろう。仕事どころではないはずだ。

 思い当たることがあった。彼は1週間仕事を休んで、エジプト旅行に行った。

 「50度の炎天下で大変でしたよ。」

にこにこしながら、お土産のパピルスをくれた。たった一人でエジプトに行って、何が楽しいのだろうと訝っていたが、それは楽しいはずだった。

 宴会が終わるころになると、彼は感極まって私の手を握って離さない。

 「先生のおかげです。先生の仕事ぶりを参考にします。とっても勉強になりました。」

 「開業って大変ですけど、頑張ってくださいね。」

 「大丈夫です。頑張ります。」

 彼は、新しい診療所のチラシを見せてくれた。なんと日曜日も診療するではないか。おまけに在宅診療もすると書いてある。彼の今の働きぶりからは想像もつかない内容だった。

 彼はさわやかに去っていった。後任の医師はすぐに決まった。恩師の外科部長から電話があった。

「開業したい先生がいるから、1年間修業させてあげてほしい。」

私は二つ返事で引き受けた。今度は、よく働く先生だった。

「生命を奪う」行為の意味が、初めはわからなかった。誰の生命を奪うのか? 働かない内科医の生命? それはそうだろう。うつ状態で、放心状態で彼はやってきて、ゆっくりと休養し、再出発していった。それだけなのだろうか?

私たちの病院は、外科系の病院だった。だが時代がどんどん変わっていった。小さな個人病院がリスクを抱えて手術をする時代は終わろうとしていた。内科系の病院に転換していく時だった。気が付くと、彼はたくさんのものを残してくれていた。病院全体が方向転換するきっかけを与えてくれたのだ。あの時、怒りに任せて契約を破棄していれば、私たちの意識の転換も起こらなかっただろう。まさに、私たちにとってもあの時がターニングポイントだったのだ。自分たちの生命を自分で奪おうとしていたことが、初めて分かった。

7.壁の穴

 「人は何のために生きているのだろう?」

私には永遠の課題だった。高校時代世界史の先生がよくカントの話をしてくれた。ドイツ哲学の最高峰である。先生は、どうしてもカントの思想を理解したくて、ドイツ語を学び原書を読んだ。そして、ついにカントの本意が分かった時、うれしくて踊りだしたという。私も『純粋理性批判』にかじりついた。

卒業の直前、先生の部屋を訪ねた。先生は喜んで話してくれた。

「僕は、この世とあの世の間を行き来しているのですよ。」

不思議なことを言って、『プロレゴーメナ』をくれた。だが、カントには到底歯が立たなかった。

外科の研修医時代、1年間谷口雅春の『生命の実相』を読みふけった。本当に悟った人の言葉は深く胸にしみこんでいった。ある日、私の目の前が開けるような感覚にぶつかった。 

「わかったー。」と小躍りしたくなる瞬間だった。

「あなたは、私だ。」宇宙の実相はすべてが一体であることを教えていた。

「山川草木国土悉皆成仏」そうだったのだ。分離など初めからなかったのだ。

夜も更けていた。私は小躍りしながら、寝ている妻の寝床にもぐりこんだ。

「やっと分かったよ。分かったのだよ。今度教えてあげるからね。」

私は、優しい声で妻の耳元にささやいた。

妻は起きていた。

「そうなの。良かったね。どうせいつもあなたが先生で、私は生徒ですよ。」

恐ろしいほど冷たい声だった。妻はくるりと反対を向いてしまった。

なぜかものすごい怒りが私の内側から沸き起こってきた。さっきやっと分かったと思ったことが、一瞬でガラガラと崩れてしまった。

(お前なんか離婚だ。)

心の中で叫んでいた。到底寝ていられなかった。私は腹立たしく布団を跳ねのけ、階段をドスンドスンと言わせながら、階下へ降りて行った。思わず壁を叩いた。すると、手が壁を突き破ってしまった。全然痛みを感じない。

居間に行くと昨日買った小さな折り畳み椅子があった。

(チクショー。)

私は、椅子を床にたたきつけた。あっという間に椅子はバラバラになってしまった。私は椅子を徹底的に解体した。解体しながら、徐々に冷静になっていった。

(あーあ。このごみをどこに捨てるのだい。)

私は、ごみ袋に入れて、庭に置いた。そして、考えた。

 さっき「あなたは私だ」と思ったことが、うそだと分かった。何も分かっていなかったのだ。ただ、自分の思想の方向が変わっただけだ。分析から全体へ。分離から統合へと思考の視点が変わったのだ。それを、分かったと感じただけだった。

 私は、すごすごと寝床へ戻っていった。

 「ごめんね。分かっていないのは僕の方だった。君なしでは生きていられない。」

妻に誤った。

翌朝、洗面所にいると子供たちの声が聞こえた。

「すごかったねぇ」

「こんなところに穴が開いているよ。ほら、指が入っちゃうよ。」

「あれっ、お父さん昨日椅子を買ってきたよね。どこにもないよ。」

「どこ行っちゃったのかねぇ。」

(なんだ、みんなおきていたのか。)

8.見えない宇宙の力

 妻は不思議な人だった。私は、課題にぶつかると一人で思索する。やがてついに分かる時が来る。それを妻に伝えると、即座に妻は理解する。一瞬で理解するのだ。全く不思議だった。そして、二人でやってみる。

 結婚したころ私が興味を抱いていたのは、豊かさだった。本当の豊かさとは、お金をたくさん持っていることではない。お金を貯めこむことでもない。必要な時に、必要なだけあることだ。

「与えれば与えられる。」

「神は7度の70倍にしてあなたに返すだろう。」

私はそれを体験したかった。私は口癖のように妻に言った。

「お金は天から降ってくるのだよ。」

駅で募金をしていれば、必ず小銭を入れた。寄付をできるだけするようにした。ある時、20万円ほど貯まったので、妻にどこでもよいから寄付してねと頼んだ。

妻はためらったそうだ。当時は、そして今も、20万円は大金だった。NHKや日赤で寄付を集めていた。今日行こう。明日行こう。と思ってもなかなか行けなかったそうだ。

私も同じだった。30万円が貯まった。病院のそばの児童施設に寄付したいと思った。最近そこの理事長と知り合って、戦後間もない創立時代の話を聞いたばかりだった。温厚で思慮深い物腰の丁寧な理事長だった。一目で私は惚れてしまった。

机の引き出しの封筒に入れた30万円は、いつまでもそこにあった。月日はどんどん経つのに、私はちっとも行動に移さなかった。

ある日、突然私は追い詰められた。職場でのちょっとした言葉の行き違いなのに、私は窮地に立ってしまった。雨の降る晩だった。どうしてこんなつまらないことに躓くのだろう。思いを巡らせていると、お金のことに気づいた。

ふと、このお金が必要なのだと気づいた。すぐにも必要だった。私は理事長に電話した。

「夜分なのですが、今からお伺いしてもよいですか?」

理事長は何も聞かずに、「どうぞ、お待ちしています。」と答えてくれた。

私は、雨の中を訪ねた。理事長が玄関で待っていてくれた。静かな晩だった。簡単な挨拶をし、とりとめのない会話をした後、私は寄付の申し出をした。理事長は、ありがとうございますと、すぐに受け取ってくれた。わたしはほっとした。私の役割を果たせたのだ。

それは、土曜日の朝だった。

「お父さん、お金がないのですけど。」

妻がにこにこ言った。私は不意を突かれた。

「お金って、通帳にもないの?」

「通帳にもないのです。お財布も空っぽです。」

「分かった。なんとかなるよ。」

(お金は天から降ってくるから、何にも心配しなくていいよ。)

私の口癖だった。宇宙は必ず答えてくれると、確信していた。だが、今日は土曜日だ。どこからお金が降ってくるのだろうか。

車で日赤医療センターに向かった。私は、そこの無給医局員だった。生活費はアルバイトで稼いでいた。週1回バイト先の病院当直をし、月1回土日当直をしていた。生活はそれで何とか成り立っていた。

病院に着くと、廊下で同僚にあった。

「先生、ちょうど良かった。バイト先のお給料、先生の分も預かってきたよ。」

白い封筒を開けると、10万円余り入っていた。

(降ってきたー。)

思わずにやっとした。妻が目をまん丸くするのが見えた。しかし、次は私が目をまん丸くする番だった。

午後になると、外科部長に呼ばれた。

「君ね。今度有給になれるよ。」

まったくあてにしていないことだった。当時この病院の有給医局員になるのは至難の業だった。東大病院から優秀な医師が次々とやってきていた。

「ほんとですかぁ。ありがとうございます。」

思わず声が上ずってしまった。初めていただいた正規のお給料は、40万円だった。

(こんなにもらえるのだ。)

生活が一気に楽になった。

 金曜日の夜、11時ごろだった。病院を出ると土砂降りだった。車で来ればよかったと思ったが、もう遅い。医療センターから渋谷駅に向かうバスはとうに終わっていた。玄関にタクシーは一台もいない。土砂降りの雨の中、正門まで歩いてみた。大通りをタクシーが次々と六本木に向かって走っていく。バブルの時代だった。下りの空車などあるはずがなかった。

 雨宿りをしながら、渋谷駅まで歩いたらずぶぬれだなと思って、たたずんでいた。心の中で、天使に頼んだ。

 (お願い。タクシーを一台お願いします。)

 その瞬間、私の後ろでばたんと車のドアが閉まる音がした。慌てて振り向くと、ちょうどタクシーから人が降りたところだった。駆け寄って、運転手に声をかけた。

 「渋谷駅までよいですか?」

 快く乗せてもらえた。ありえない奇跡だった。

(天使さんありがとう。)

 当時、日赤医療センターの通勤に私は中古のアコードを使っていた。車高が低くてスポーツカーに似ていたので、とても気に入っていた。ところが、朝の通勤時間帯に渋谷の交差点で突然エンストしてしまった。いくらキーを回しても、エンジンがかからなかった。

 突然、運転席の窓をこんこんとたたく人がいた。みると後ろの大型トラックの運転手だった。

 「道路の端に寄せてあげるから、ハンドルを切って。」

 にこにこしながらそう言うと、彼は後ろから私の車を押してくれた。

 「おかしいなぁ。やけに重たいぞ。」

 彼が戻ってきて、車内を覗いた。

 「なーんだ。サイドブレーキがかかっているじゃない。それ外して。」

 私は、慌ててサイドブレーキを緩めた。車は音もなく動いて、道端に止まった。運転手は、いつの間にかいなくなってしまった。

 私は、ほっと溜息をついた。もう一度キーを回すと、エンジンがかかった。私は何事もなかったかのように、職場に着いた。遅刻もしなかった。

 (天使さんありがとう。)

 医学部6年生の時だった。私はやっと運転免許を取った。

「免許証がなくて、女の子にもてるのは君くらいだね。」と友人に冷やかされていた。

国家試験前だったが、気晴らしに遠出がしたかった。兄の恐ろしく古い中古のカローラを借りて、夜の道を北に走らせた。行けるところまで行こうと思った。まだ行ったことのないところへ行きたかった。高崎を過ぎたころだった。もう真夜中をとうに回っている。国道なのにやけに狭い道だった。対向車がしきりにパッシングをしていく。1台だけではない。何台もすれ違いざまにパッシングするのだ。

(おかしいなぁ。)さすがの私も、変だと思った。

路肩へ車を止めた瞬間、ボンネットからもうもうと水蒸気が上がった。オーバーヒートだ。授業では習っていたが、予想以上にすごい白煙だった。

「こういう時は、すぐにボンネットを開けてはいけない。やけどをするから。」それだけは耳に残っていた。煙が収まったころ、ホースを持ったおじさんがやってきた。

「オーバーヒートだね。こういう時は、大体壊れる場所が決まっているのだよ。」にこにこしながら嬉しそうにボンネットを開けて、点検を始めた。

「やっぱりこのホースだ。」おじさんは、さっさと修理してくれた。

「これで大丈夫だよ。しばらく運転できるけど、あとで修理に出したほうがいいよ。」

おじさんは、元来た方へ戻っていった。私はタクシー営業所の真ん前で故障したのだった。おじさんがどこから現れたのか、合点がいった。

私はおじさんにお礼を言うと、車の向きを変えて自宅に向かった。明け方、無事自宅に着いた。

(ここにも天使がいた。)

9.重荷を負うている者

 病院経営は、働いても働いても好転しなかった。外来、入院患者、救急車と引きも切らずに仕事が続いていた。一体この苦労はいつ終わるのだろうか。後継者がいないわけでもなかったが、彼は全く病院に興味を示さなかった。何年働いても、状況は何も変わらなかった。ついに私は疲れ果てた。倒れるしかここから抜け出る道がないように思われた。自分でも危ないと思った。

 私は妻に頼んで、一緒に旅行に出かけることにした。病院から離れなければ、危ないと思った。土曜日の午後3時、妻と東京駅で待ち合わせした。軽井沢に行こう。仕事を忘れるのだ。

 新幹線に乗るとあっという間に軽井沢に着いた。タクシーで塩沢温泉に向かった。突然フロントガラス越しに巨大な白いピラミッドが現れた。あれは何だ。私は度肝を抜かれた。通り過ぎた車から後ろを振り返ると、こぶしの巨木だった。満開のこぶしの白い花が、巨大なピラミッドに見えたのだ。

 塩沢温泉は、古い旅館だった。堀辰雄が逗留したことで有名のようだ。温泉につかり、夕食に舌鼓を打った。仕事を忘れて寛ぐことができた。明日はバードウォッチングに行こう。

部屋は、ログハウスのような丸太が露出した作りだった。天井が高くて、古いがゆったりとした広い部屋だった。

 夜、夢を見た。婦長が出てきて、「急患だから早く起きて。」と言う。

僕は、「休暇中だから良いのだ。」と言ったが、「急患の後は入院患者が待っていますから。」と僕を揺さぶり起こす。

「しょうがないなぁ。」僕は白衣を着て外来に向かって歩いて行こうとする。

(待てよ。軽井沢に来てるのじゃなかったっけ。)

目を開けると、天井の丸太が見えた。

(やっぱりそうだ。ここは軽井沢だ。)

休暇に来ても、病院が追っかけてきた。

(休暇なんか、意味ないじゃないか。)がっかりした。

翌朝は着替えて、6時に玄関前に向かった。インストラクターが、大きな看板を持って立っていた。『まつ』たったそれだけの文字が、書かれていた。

「また、待つのか?」

「あなたの一番嫌いな言葉ね。」妻が言った。図星だった。

参加者が集まると、インストラクターが説明を始めた。

「まつは、木の松ではありません。待つです。小鳥は追ったら見つけることはできません。じっと待っていると、彼らの方からやってくるのです。それが、バードウォッチングのコツです。」

一体いつまで待ったら良いのか。先の見えない状況にいらだっていた。

 その頃外来で事件が起こった。若くおとなしい女性が、首の痛みを訴えて外来にやってきた。交通事故だという。聞けば何カ所かの整形外科を受診していた。とりあえずレントゲンを撮ってみると、後縦靭帯骨化症の疑いがあった。交通事故とは関係がないと説明すると、おとなしく納得して帰っていった。

 数日後、彼女がまた外来にやってきた。交通事故として受診しようとしていたので、通りかかった私は事務職員に交通事故のカルテではなく、健康保険のカルテを使うように指示した。すると突然太った人相の悪い男が目の前に出てきた。

 「交通事故ではないとはどういう事だ。」ものすごい剣幕だった。彼女の陰に男がいたのだ。男は、受付で大声を出し、なかなか帰らなかった。後で分かったが、交通事故の診断書が欲しくて病院を渡り歩いていたのだ。うちで8カ所目だった。

 それから連日男がやってきて、受付で大声をあげて嫌がらせをした。外来患者は怯えてしまった。警察官も立ち会ってくれたが、大声を出すだけで暴力を振るわないので、手が出せなかった。あまりのしつこさにほとほと困り果てた。

 いったいなぜこんなことが起きるのだろうか? 何のために起きているのだろうか? 私は自問した。すると思い当たることがあった。

 2,3週間前のことである。義母が北海道旅行に出かけたお土産に、立派ないくらの醤油漬けを買ってきてくれた。驚くほど粒が大きく、プチプチしていた。病院の昼食にも出すと非常勤の先生が、最近偽物が出回っているのをテレビで見たと言いだした。

「熱いお湯に入れてみれば、本物か偽物かわかりますよ。」と言ってやってみた。

「どうも偽物みたいですね。」

「えっえ、全然わからないですね。」私は、何も気づかずにパクパクと醤油漬けを食べた。

ところが、その場に居合わせた義母は衝撃を受けていた。たくさん買って親戚にも送った醤油漬けが偽物と言われてしまったのだ。製造会社に電話をし、本物だと言う返信まで要求した。丁寧な手紙が届いたが、それでも気が済まない様子だった。

何も気づかずに、みんなではしゃいでいたことを痛く反省した。これは謝っておかなくてはいけないと気づいた。

私は早速義母のところへ行った。

「お母さんの気持ちに気づかずに、みんなで偽物だなどと言ってしまって本当に申し訳ありませんでした。」

私は素直に謝ることができた。

義母は、「もう済んだことだからよいのよ。私もこだわり過ぎていたのかもしれない。」と言ってくれた。私は、気づかせてもらって良かったと思った。

翌日、あれほどしつこかった男がこなかった。3日たっても、1週間たっても男は現れなかった。別に男を待っているわけではなかったが、それっきり男は消えてしまった。

自分の心と現象とが関連していることは知っていた。しかし、これほど深く関連しているとは驚きだった。

10.天使が降りてきた

 私の精神的疲労は極限まで来ていた。何回か週末に軽井沢に出かけたが、緊張は解けなかった。車で通勤するのだが、病院が近づくにつれてため息が増え、身体が緊張するのが分かった。はるか遠くで鳴る救急車のサイレンが誰よりも早く聞こえた。そして、サイレンが遠のくとほっとした。

 ある日、外来がすいた隙を見つけて居間で休んでいた。そこへ、義母がカルテを持ってやってきた。処置に関する簡単な質問だった。義母は皮膚科医だが外科の処置もこなしてくれた。私はソファから起き上がり、返事をした。自分が不機嫌になるのを抑えられなかった。優しい義母に何という冷たい返事だろう。

 いよいよ危ないと思った。何かが起こらないはずがなかった。けれども、私は自分の仕事を続けるしかなかった。

 義母がお墓で転んでけがをした。外来に突然連絡が入った。看護師が菩提寺に迎えに行きましょうかと言ってきた。どうしようと相談しているうちに、義母が診察室に連れてこられた。頭をざっくりと切って出血していた。

 「ごめんなさい。段差で躓いてしまって。」迷惑をかけたと、皆のことを案じている。

 傷の処置をしながら、私の性で怪我をさせてしまったと思った。優しい義母、いつも私をかばってくれる義母だった。私は申し訳なさでいっぱいになった。

 私たちは小病院としては珍しく第三者機能評価を取得した。医療安全、経営効率などあらゆる側面で見直したかった。しかし、小病院が生き残る道はどんどん狭められていった。

 厚労省の思惑通り、病院が次々と閉院し始めた。私たちのような50床前後の病院だけではない。200床もある病院も閉院していった。締め付けはどんどんひどくなった。病院の経営は、医師と看護師の数で評価されていた。ところが、優秀な医師を確保できないだけではない、看護師の数すら確保できない時代だった。

 広告費をいくらつぎ込んでも応募の電話1本鳴らなかった。そして、医療崩壊が始まった。まず妊婦が入院できる病院がなくなった。次に子供たちが入院できる病院がなくなった。救急車が現場に到着しても、搬送先が見つからずに1時間も立ち往生することが当たり前になった。救急医療から崩壊し始めた。

 厚労省は、入院患者の在院日数を減らすように病院を締め上げた。当時平均在院日数は28日だった。それを14日になるように誘導した。単純に計算しても、必要なベッド数は半分になる。マスメディアが喧しく医療崩壊を取り上げ始めた。

 ついに消防庁から病院に電話がかかってきた。

 「お宅の病院は、救急受入数が少なすぎます。もっと救急車を受け入れてください。」

 お互いに事情は分かっていても、マスメディアは責めるのが仕事だ。私たちは、無理に無理を重ねた。皆緊張が極度に達して、看護師も限界だった。研修医制度が変わり、当てにしていた当直医も来なくなる。私は、事故が起きる前に病院を止めたかった。

そして、巨大な銅鑼の音が鳴り響いた。

 夕方大学病院から転院依頼があった。意識不明、住所不明の高齢者だった。大学病院も空床確保に必死だった。

 「全身状態は安定しております。補液して、経過観察だけで良いですから、転院させてください。」

 「徘徊したりしませんよね。」

 「大丈夫だと思います。」

 何とも情けないやり取りだった。

 私たちは、もし徘徊してもすぐに気づくように3人部屋の真ん中のベッドに入院させた。看護師にも頻回に様子を見るように指示した。当直の先生にも頼んで帰宅した。

不安は的中した。夜中に、当直医から電話がかかってきた。

「ものすごい音がしました。3階から誰か飛び降りたようです。隣のプレハブの間に落ちたみたいです。」

「先生、見に行ってください。」

「恐ろしくて、見に行けません。」

「そんなこと言わずに、お願いだから見に行ってください。」

結局、救急隊と警察が来た。そして、警察に引き取られていった。

それからしばらくして、内科医の叔父が言った。

「そろそろ閉めましょうか。」

「そうですね。限界でしょうか。」

終わりはあっけなかった。反対する人は誰もいなかった。私は義母に対して申し訳なかった。昭和34年に創立し、病院と共に生きてきた義母だった。43年間の思い出が詰まっている場所だ。

昼下がり、二人で居間のソファでくつろいでいる時だった。

義母が言った。

「長い間ご苦労様。ありがとう。これからは、診療所にして、みんなで幸せになりましょう。」

義母の美しい顔をカーテン越しの光が照らしていた。ロマンスグレーの髪がきらきらと輝いた。涙はなかった。ただ気遣ってくれる優しい愛情だけが部屋を満たしていた。

(天使が降りてきた。)私にはそう感じられた。時間が止まり、まるで絵画のように静かで美しい光景だった。

11.光一元の世界

 それからほんとうに幸せな日々が続いて既に20年近い月日が経っている。私には、家のカルマが終わったように見える。義父の子供4人はすべて女の子、叔父の子供4人はすべて男の子だった。二つの家が病院を巡って協力し合っていた。同時に深いカルマも背負っていた。私は火中の栗を拾う役割だったが、栗を拾いたくて加わったのだ。私自身のカルマの約束を果たすために。

シェークスピアは、それを『ロミオとジュリエット』で描いている。個人のカルマがあるように、集合意識としてのカルマもあるのだ。

 苦節10年というが、人間にとって10年経てばどんな状況も変わってくるということだ。どんな忍耐も10年以上続くことはない。そこに大きな希望がある。

 天使には、カルマは存在しない。人間だけがカルマのドラマに溺れていく。だが、ドラマは冒険の始まりでもある。神様はドラマを味わいたくて人間を作ったのだ。人間という果てしなく善にもなれるが、果てしなく悪にもなれる存在として。そして人間を助け支える存在として天使がいる。その天使でさえも、ドラマを演じたくて人間として生まれてくる。それほど人間には面白さがあるのだ。

 今、人類歴史の反転が始まっている。2017年から2021年がその反転の分別期間だ。2022年から2028年まで7年間の忍耐の期間が始まろうとしている。多くの人が苦難を味わうだろう。病疫や天変地異や経済的困窮があるかも知れない。だがすでに夜明けは始まっている。夜明けの黎明の中で、あなたが光を放つのだ。いつ果てるとも知れない暗闇での彷徨ではない。2029年燦然と光明を放つ精霊の降臨までの最後の7年間である。そして、2038年栄光のアセンションを迎える。その時までに人類は霊能力を開花させ、途方もない宇宙文明が始まっているだろう。

 人類の集合意識は、20世紀末から現在まで次々と並行宇宙をジャンプして上昇している。それは別の見方をすれば、あなたが並行宇宙をジャンプしているということだ。人類滅亡のシナリオから、様々な多次元的並行宇宙のシナリオを通して、アセンションのシナリオへとジャンプし続けている。こうして時を加速させ、さらに素晴らしいアセンションのシナリオへとあなたは現実を変えている。

 「1日怠れば、1日遠ざかり、1年怠れば、1年遠ざかる。」と谷口雅春は言った。まさにその貴重な瞬間に私たちは立っている。一歩一歩、この階梯を上り続けよう。その足取りは、光一元の世界へとあなたをいざなうだろう。

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