エゴとハイアーセルフ

投稿日:2021/08/05

1.集合意識

 人が集まってプロジェクトをするとき、そこに集合意識が生まれる。私は、集合意識は自分とは別のものだと思っていた。しかし、自分とは別のものなど存在しない。集合意識とはハイアーセルフのことだった。集合意識は、より広い視点でプロジェクトの全体をとらえている。それだけではない。あなたが思い描いていることに欠けたところがあると、集合意識が教えてくれる。プロジェクトの完成のためにはどうしても必要な部分だからだ。より大きな視点、それはビッガーピクチャーとも呼ばれる。ともにハイアーセルフの別の名前だ。

 では、あなたとは誰なのか。エゴのあなたに他ならない。ハイアーセルフに繋がるとは、集合意識に繋がることだ。集合意識は、人間だけで構成されているのだろうか。そうではない。あなたの周りの森羅万象すべてが集合意識の一部なのだ。

 集合意識は、プロジェクトをするときだけ現れるのだろうか。そうではない。あなたが独りぼっちだと思う瞬間にも、あなたは集合意識に包まれている。うつむいて地面を見る時も、涙を払って空を見上げる時も、集合意識から離れることはできない。何故ならそれがあなただからだ。

 平成19年、私は地区医師会の3回目の理事なった。会長から頼まれたのは訪問看護ステーションの再建だった。10数年前設立された訪問看護ステーションは、浮き沈みが激しかった。ある年は管理者と理事が対立してスタッフを連れて全員辞めてしまった。そして今また崩壊の危機に陥っていた。

 「来月常勤が2人辞める予定なのだけど、何とか頼むね。」

 「常勤ナースって、5人しかいないじゃないですか?」

 「そうだよ。3人になったら24時間体制は難しいね。」

 「最近、ナースは募集できているのですか?」

 「もう10年間、一人も入ってきていないよ。」

 看護師確保はどんな医療機関でも最大の問題だった。日本は慢性的な看護師不足である。

 私は前任理事に様子を聞いた。過去の担当理事たちにも話を聞いた。次第に状況が分かってきた。管理者とスタッフはことごとく対立していた。私なりの意見をまとめて、管理者と会うことにした。その日夕方管理者とクリニックで会う約束をした。

 朝出勤するとクリニックのパートナースが泣いていた。あれどうしたのだろうかと思っていると、昼休みに口論が始まった。看護主任と彼女だった。パートナースは、休ませてくださいと言って帰ってしまった。

事情は本当に些細なことだった。しかし、こんなことはかつてなかったことだ。よりによって管理者と打合せをする大事な日に、自分のクリニックでもめ事が起きたのだ。私は、自分が管理者に言おうと思っていたことを、全部白紙に戻した。今日は、彼女の話を全部聞こう。そう決心した。

管理者は時間通りやってきた。状況をよく把握していた。忍耐強い人だった。だが、解決策は思い浮かばなかった。

「常勤3人になったら、24時間体制はどうするのですか?」

「私が、月2週間夜勤当番をします。」

「それでも、5週ある月はどうするのですか?」

「非常勤で手伝ってくれる人でうめます。」

「新規募集は?」

「広告出せるとこは全部出しました。でも、パート欄にしか載らないのです。」

「常勤の募集でしょ?」

「契約職員は、パート扱いなのです。」

「正職員は何人いるの?」

「私だけです。」

「どうして?」

「最初からそういう決まりです。」

次第に本当の問題が浮き彫りになってきた。医師会がステーションを作るときにいつでも廃止できるように正職員を採用しなかったのだ。最初は厚労省のばらまき行政で人が集まったが、今は締め付けの方が厳しい。

管理者は1時間、思いのたけを打ち明けてくれた。私は笑顔で彼女を送り出した。私は泣きだしたクリニックのスタッフに感謝した。先入観で面接を始めていたら、結果は全然違っただろう。

問題の本質は、医師会の及び腰にあった。私は会長と理事会に働きかけ、契約職員を全員正職員に採用しなおした。就業規則を作り直し、働きやすい環境を整えた。だが、新規採用は難しかった。

管理者から次々と提案があった。

「理学療法士を採用したい。」

今でこそ訪問看護ステーションに複数の理学療法士が勤務しているが、当時はまれだった。早速面接を始めると、驚いたことに数名の応募があった。看護師の募集では誰も応募がないのに。理学療法士を指導できる講師も採用した。

「認定看護師の資格を取りたい。」また新しい提案だ。

当時認定看護師は、民間の医療機関の資格だった。しかも、6か月間の研修が必要だった。授業料は90万円。実習期間がありその間は勤務ができなくなる。

理事会に諮ると、結構反対意見が出た。資格だけ取って辞めたらどうするのか。という意見もあった。それでも何とか取りまとめた。毎年1名ずつ認定看護師の資格を取るようにした。

私は、毎月2ヶ所のステーションの申し送りに参加するようにした。スタッフの雰囲気は全く変わってしまった。些細なことまで何でも相談が来たが、十分な予算を確保しておいたので、解決は難しくなかった。

管理者が認定看護師の資格を取ると、応募が次々と来るようになった。今度は定員オーバーを考える番だった。適正規模を決め、スタッフの高齢化対策も検討し始めた。結局6年間担当したが、累積赤字5,000万円を返済し、毎年2,000万円の黒字が出るようになった。

私はあらゆる問題を理事会に諮った。すると思いがけない意見や手厳しい意見が出た。初めは、私の中で反発もあった。しかし、これは集合意識なのだ。どこかに私の見落としていることがあるに違いなかった。理事会で議論をすると、その欠けた部分が浮かび上がってくるのだ。私はそれをプランに取り入れ、実行する。するとあっさりと実現した。

経営が軌道に乗ってきたとき、私は部屋を間借りしている方のステーションのために、建物を購入する案を思いついた。現在のステーションは駅から遠く利便性が悪かった。ステーションの中に物件を購入できる余裕もできてきた。私はひそかに検討を始め、理事たちにはそんな可能性をほのめかした。すると、経理担当理事から猛烈な反対があった。大したものだと思った。まだにおいが漂っただけなのに。

理事を辞めてみて、購入しないで良かったことに気づいた。もし購入していたら、一生担当理事を降りられなかっただろう。

2.建て替え

 ハイアーセルフとして生きるとは、集合意識で生きることに他ならない。私たちはまだ3次元世界に生きている。そこには沢山の制約があり、制度がある。ハイアーセルフのインスピレーションを地上に降ろし、現実化するためにエゴの力が必要である。主役はハイアーセルフだ。その現実化をサポートするのがエゴの役割になる。

 平成4年義父から個人病院を引き継いだ。課題が山積していた。中でも昭和34年に建った古い建物をどうやって建て替えるかが最大の課題だった。自分が生きているうちにできるだろうか。壊すだけでも4,000万円かかるのだ。

 可能性はあった。目の前の早稲田通りは戦後復興道路に指定されている。拡幅ラインが建物の柱にかかっていた。拡幅が決まれば、建て替えが可能になる。しかし、それがいつ東京都で決定されるか、誰も知らなかった。5年後かも知れないが、30年後かも知れない。

 平成20年3月私は関係者に集まってもらって、建て替えを提案した。勿論自己資金はゼロだ。懇意の設計士と大手建設会社が参加した。賃貸ビルを建てて、1階に診療所を作る案だった。ところが9月にリーマンショックが起きて金利上昇が予想されるようになると、すべては白紙になった。

 平成23年にもう一度仕切り直しをした。同じメンバーが集まって、同じ計画を検討した。状況は一変していた。鋼材価格の沸騰、建設費用の上昇のため、同じ条件での建設だと、毎月100万の家賃を30年間支払うことになった。30年後は墓の下だ。

 平成24年ついに早稲田通りの拡幅が東京都から発表された。直ぐにでも交渉が始まるのかと思ったが、その後3年経っても何の連絡もなかった。

 平成26年12月突然中野区から電話がかかってきた。

 「お宅は緊急輸送道路に面しているので、耐震診断が必要です。補助金が来年3月で打ち切りになるのですが、まだ補助金の申請をしておられないようですね。」

 「いえ、うちは建て替えるので耐震診断は必要ありません。」

 「建て替える予定でも、補助金は出ます。4月以降には義務化されますから、その時は自費で耐震診断することになりますよ。」

 要するに急いで耐震診断をしなさいということだった。しぶしぶ耐震診断をした。昭和56年以前の建物では、耐震診断をパスすることはできない。耐震性がないことが明白となれば、補強が必要となる。だが、補強の費用は補助されない。

 平成27年4月診断結果が出た。好成績だったのは、意外だった。昭和34年当時のコンクリートは極めて強度が強いそうだ。東西方向の補強だけで良いとのことだった。勿論、結論は耐震性不十分。

結論が出れば、動かざるを得ない。早速、東京都第3建設局に電話した。担当者がすぐ来てくれた。

「緊急輸送道路の指定で耐震診断をしたのですが、耐震性なしの結論になりました。このまま放って置くこともできないのでご相談しました。」

私は、耐震性のないのは、あなたの性ですと言った感じで、結構無責任な発言をした。

「そうですね。本当は、お宅は5年から10年後に着手する予定でした。」

(やっぱり、そうだったか。第3建設局にいくら問い合わせをしても、未定ですの返事しか来ない訳だった。10年後では、自分は70歳になっている。)

「こういった工事では、1、2回延期になるのは普通です。」

「しかし、今から耐震補強するのも無駄のように思いますが。」

「そうですね。思い切って調査を始めましょう。」

担当者の決断は早かった。てきぱきと歯切れの良い女性の担当者だった。

山が動いた。それからはとんとん拍子に事が運んだ。敷地の測量。休業補償の算定。建て替え方法の決定。最後は第3者委員会が判定して、補償額が決まると言う。面白いことに、実際の建て替えは、補償根拠となった建て替え方法に縛られる必要は全くないとのことだった。

事の成り行きを見ながら、都の担当者はたぶん2年で転勤になるのだろうと感じられた。私たちも、それまでにすべてを終わらせたかった。過去の経験から、担当者が変わると振出しに戻ってしまうことすらあった。

3.相続税

 私にはしなければならないもう一つの課題があった。持ち株の放棄だ。医療法人法は、戦後のどさくさで株式会社と同じ制度が適応されていた。にもかかわらず、公共性の観点から配当は禁じられていた。つまり株を持っていても何の価値もないにもかかわらず、相続の時だけ莫大な相続税がかかってきた。相続税を巡って医療法人が解散になるケースが後を絶たなかった。

 さすがに法の不備に厚労省も気づいたのか、平成19年新医療法人法が制定された。持ち株制度の廃止だ。私たちのような古い医療法人も移行できる制度ができたのだ。早速調べてみると、なんと税務署が立ちはだかっていた。移行はよいが、その時は総資産の50%を納めるように。

 私は、鶴見の叔父が相続で散々苦労するのを見てきた。ついには最高裁判所まで争ったのだ。親族が争わなくて済む唯一の方法が、持ち株の放棄だった。私は、50%を納める覚悟をした。銀行と相談し専門家を紹介してもらった。山田&パートナーズの担当者がやってきた。全国規模の会計事務所だった。それでも、実績はわずか4件だった。

 義父が亡くなってから、8人が株を持っていた。義母も叔父も高齢だった。もしものことがあれば、株主の数はどんどん増えていく。誰か一人でも払い戻し請求をすれば、応じなければならない制度だった。

 「株主は8人ですか。多いですね。急ぎましょう。」

 有能な担当者だった。親戚を回って了解を取り付けた。皆、相続税には苦労していたので、よく理解してくれた。持ち株放棄の書類に実印を押してくれた。ありがたいと思った。準備は完了した。最後に関係者に集まってもらって、会合を開いた。

 担当者が持ち株放棄について、詳しい説明をした。放棄しない権利についても、説明した。

 すると突然一人が発言した。

 「私は、払い戻しして欲しいです。」

 「払い戻ししたら、半分は税金を納めるのですよ。」

 「それでも良いです。払い戻ししたいです。」

 私は唖然とした。誰かの助けを求めたかったが、下を向いたままだった。私が20年以上努力して築いたものが、目の前で音を立てて崩れていった。一人払い戻しをすれば、全員が希望するだろう。それほどまでに、金には魔力がある。私は自分を止めることができなかった。

 「分かりました。それでは私にも覚悟があります。」

 私は、啖呵を切った。

会議室はしんと静まり返ってしまった。針の落ちる音が分かるとは、このことだろう。

担当者が割って入った。

「今晩は説明だけということで、次回にもう一度話し合いましょう。」

会議は終わった。医療法人も終わったと私は思った。

 その晩、私は眠れなかった。鶴見の叔父のことを思った。叔父はどこでボタンを掛け違えてしまったのだろうか。どうして、最高裁判所まで争ってしまったのだろうか。ふと、気づいた。今、この瞬間が、ボタンの掛け違えの瞬間だった。無理に説得すれば、何とかなるかも知れない。その人が折れてくれるかもしれない。だが、それが墓穴の始まりだ。長く苦しい争いが見えた。振り上げたこぶしは誰も下ろすことができなくなる。

 医療法人は終わった。それでも争うよりは良いと思った。

 翌朝叔父に謝った。

 「この話はなかったことにしてください。」

 ほっとした様子で、叔父は何も言わずに頷いた。

 担当者にも電話をした。

 「新医療法人への移行は撤回します。なかったことにしてください。」

 「えっ。」

 担当者が絶句した。いろいろな提案をしてきたが、私は同じ事を繰り返した。電話を切ってから気づいた。まだ、担当者と契約書を交わしていなかった。

 そして、奇跡が起きた。

 妻の妹が動いてくれた。

 「もったいないわ。私に任せて。」

 彼女の顔は輝いていた。だが、私は完全に決心していた。

 「僕は、降りたからね。」そう言った。

 「あの人は事情を分かっていないだけよ。話せば分かるわ。」

 妻と義妹が会いに行った。みんな了解してくれたと言う。私には信じられなかった。書類にも実印を押してもらったと言う。それでも、私は動かなかった。

 ついに、全員が書類に判を押す日が来た。

 すべての書類がそろったのだ。

 会計事務所の担当者が税務署に提出する書類を作成した。税額は、6,500万円だった。私は惜しいとは思わなかった。後で知ったが、この税率は徐々に引き下げられ、現在ではゼロになっている。それでも後悔はしなかった。あの瞬間しかなかったのだ。

4.だから何なの

 平成27年4月建て替えに向けて検討が始まった。この後に続く2年余りは、私にとって奇跡の連続だった。大きな奇跡もあれば、小さな奇跡もあった。毎日ありえないことが当たり前に起こった。あまりの驚きで、眠れない日もあった。けれども、ほとんどの日々は平穏に過ぎていった。平常心是道の意味が分かった。期待しすぎてはいけない。期待を手放すのだ。喜び過ぎてはいけない。

『だから何なの』

3次元世界でどんなに素晴らしいことが起こっても、それに心を奪われてはいけない。『だから何なの』と言いなさいと、並木先生が教えてくれた。

その時天上界から高い周波数が降りている。平常心であって初めて受け取る器ができる。もし、過度に喜んでしまっていたら、それはエゴの喜びだ。エゴの低い周波数では受け取ることができない。どうなるだろうか。たいていは眠れなくなる。そして体調を崩す。順調に回っていた歯車が狂いだす。想定外のことが起きる。幸運が逃げていく。計画はばらばらになり、雲散霧消する。

スポーツを見ていると良くそういうことが起きている。3日目まで大躍進していたゴルファーが最終日に信じられないミスを繰り返し、自滅していく。ペナントレースで勝ち進み、マジック10くらいになった頃から連敗を続ける球団。みなエゴがぬか喜びした結果だ。

『だから何なの』それはあなたを平常心に引き戻す魔法の言葉だ。さあ、落ち着いて瞑想しよう。心が浮ついて飛び跳ねるのを鎮めるのだ。

建て替えが決まった。十分な建築費用が補償された。後は簡単なことだと思った。だが、実際は不可能の連続だった。第3者委員会が提案したのは、移転だった。これには、都の担当者も驚いた様子だった。最初に担当者が提案した建て替え費用の算定方法にはないプランだった。建て替えるためには、仮診療所を借りなければならない。その費用が予想以上に膨らむことが分かった結果、より費用の掛からない移転というプランが浮上したのだ。

私もそうだと思っていた。早速移転先を検討した。何件かよさそうな物件が見つかったので、妻と見に行った。物件はよい。場所も良い。ところがすぐそばに内科診療所があった。同じ内科診療所を建てるのでは、喧嘩を売っているようだ。移転先は、現在の診療所のすぐ近くではならない。今通院している高齢者でも通える範囲に求めたい。それは不可能だった。東京のど真ん中で、診療所のないエリアは存在しないことに気づいた。

現在地に建て替える。それしか選択肢はなかった。初めからそれしかないのだ。初めて気づいた。仮診療所。それが難題だった。最低60坪の面積が欲しかった。1年半の建て替え期間をそこで過ごす。決して短い期間ではない。手近で、そんな広い空間がすぐ見つかるなど考えられなかった。

そのため、以前大手建設会社が提案したアイデアがあった。コインパークを借り上げるのだ。そこにプレハブ2階建ての仮診療所を設置する。建て替えが済んだら、更地にして返却する。試算では、1年間借りただけで6,000万円だった。確かにコインパークなら、近くに何か所かあった。しかし、6,000万円は高すぎると感じていた。

ともかく賃貸物件を探してみよう。不動産会社に依頼した。すると、即座に物件が紹介された。まるで待っていたかのようだ。大きなビルの3階。ワンフロアの半分以上が空いていた。80坪。同じフロアに整形外科があった。院長は懇意にしているエレガントな女医さんだ。クリニックからわずか180mのところにその物件はあったのだ。しかも、オーナーはよく知っている人だった。知っているなんてものではない。彼の父親は地域では有名人だった。しかも、最期は私たちの病院で亡くなった。父親は義父とも仲が良く、自分で栽培しているという三ケ日ミカンを毎年届けてくれた。私が、自宅を探していたころは、わざわざアドバイスをしてくれた。

「家は、環境を買うのだよ。」名言だった。

私は興奮を抑えきれなかった。最大の難関が解決される。嬉しくて小躍りしたかった。早速設計士と皆でぞろぞろと物件を見に行った。こんな近くに広い空間があったとは、誰も知らなかった。知らない訳だ。そこは古い倉庫になっていた。照明も壊れてほとんど点いていない。何と10年間使われずに眠っていた。

オーナーとも顔見知りだった。顎髭を長く伸ばし、少し猫背の人だ。私より10歳ほど年上だろう。会った瞬間嬉しさが込み上げてきた。彼も同じだ。10年も空いていた場所が埋まるのだ。誰もいなかったら、二人で抱き合ったかもしれない。彼は頑固で一風変わっていて、世間の常識とはまるで反対な生き方をしていた。金持ち喧嘩せずというが、なんでも喧嘩腰だった。私は心の中で、頑固で喧嘩腰であってくれてありがとうと思った。そうでなければ、この物件はとうに誰かに使われていたはずだ。

1年半私たちは仲良く時を過ごすことができた。最高の場所だった。近くに内科診療所もない。このまま一生ここにいても良いと思うほど、私は気に入った。しかし、毎月80万円の家賃を払うのは大変だ。平成29年12月、私たちはやっと元の場所に戻ることができた。幸運の連続に驚かされ、ただ宇宙に感謝している。平常心でいるように戒めながら。

5.黒龍

 令和元年新しい診療所で講演会を企画した。2、3ヵ月に1回、土曜日の午後開催した講演会は毎回盛況だった。その日は、ぶっちぃの講演だった。彼は背が高く優しくて気さくな青年だった。クリスタルが大好きだった。リーティングも得意としていた。

 彼の話は参加者の度肝を抜いた。ある日異言が口を突いて出たと言う。今でこそライトランゲージと呼ばれているが、その時は彼にも意味が分からなかったと言う。実は、聖書にも異言のことがかかれている。私も過去に2回異言を見たことがあった。それは、本当に驚きの瞬間だった。ものすごく早口で全く聞きなれない言葉を話すのだが、言語をしゃべっているのだと感じられる。彼もそうだった。

 それから何年もかけて彼は異言を習得し、プレアデスのヘンリーと繋がった。今では異言を挟まないで直接チャネリングできると言う。だが、異言はパフォーマンスとして人気が高かった。30分間くらい私たちはぶっちぃとヘンリーの対話を聞き、そして異言を楽しんだ。

 ぶっちぃは、60㎝くらいの球体を両手で持っているしぐさをし、その球体を回しながらしゃべり続けた。最後に、ヘンリーが去っていった瞬間、ぶっちぃは両手を閉じた。

 終わると参加者からいろいろな質問が出た。一人の若い女性が発言した。

 「ぶっちぃが両手で挟んでいたのは通信機なのです。彼は回転させながら、その通信機でヘンリーと通信していました。そして、パタンと閉じた瞬間通信機がたたまれて、上空の母船に戻っていきました。」

 皆、唖然とした。それまではぶっちぃのエンターテイメントだったが、突然現実となったのだ。母船が見え、通信機が見える人がいる。今度は彼女に質問が殺到した。会場は騒然とした。その時彼女が言った。

 「だから何なの。」

 妙齢な女性は、看護師だった。子供のころから見えない世界と交流して育っていた。その日こそ、彼女が自分の能力を初めてカミングアウトした瞬間だった。彼女はリーディングの高い能力があった。だが実践したことはなかった。早速私はリーディングしてもらった。

 「この部屋に大きな黒龍が来ています。あなたをサポートしています。」

 「いつからいるのですか。」

 「黒龍は初めからここにいるのです。黒龍があなたを呼んだのです。」

 「この建物ができる前からですか。」

 「そうです。」

 それは驚きの情報だった。黒龍はずっとずっと前からこの地にいたのだ。そう言えば、この土地には井戸があった。今では埋め戻されてしまったが、ずっと昔から井戸があって大切にされていた話を聞いている。

 私は、自分たちで理想のクリニックを作ったと思っていた。だが、それより前に黒龍がいて、私たちが黒龍に呼び集められていたのだ。今思えば、私たちが麻炭に出会ったのは、黒龍の導きかも知れない。

 診療所を設計する時、私は何かシンボルになるものが欲しかった。広い敷地にゆったりと建てる2階建て木造建築である。それだけでも都内では珍しいのだから、ふさわしいシンボルを求めていた。ある時住宅展示場で漆喰壁を見た。心地良い空間と、漆喰のひやりとした肌触りに強い印象を受けた。そこへ妻が麻炭の情報を持ってきた。真っ黒い麻炭を漆喰の下に塗ると言うのだ。

 炭には強力な浄化作用がある。その炭を麻から作るのは珍しい。麻の原型は大麻だ。大麻は日本創生の時代から大切にされてきた植物だった。神社でお参りする鈴に付けられる紐も本来は大麻だった。大嘗祭でも令和天皇の召し物は、新たに栽培された大麻から作られた。大麻こそ神聖でありながら、人類のために贈られた生命の植物だった。だが、麻薬として封印されてしまっている。

 妻と私は麻炭を塗ってくれる職人に会いに行った。狭い路地を入った一角に古い木造アパートがあった。出てきた青年は、ぶっきらぼうで思った通り口下手な青年だった。夕暮れの作業場に上がった。壁は麻炭で塗られている。唯一のサンプルだった。だが薄暗い部屋の黒い壁は印象に乏しかった。3mmの厚さで壁に塗り、その上に2mmの漆喰を重ねる。木造だが合板の建材でも塗れるかどうか尋ねると、大丈夫だと言う。だが、どうも話が弾まない。

 「昔、中山康直さんの講演を聞きましたよ。小学生の時、池で溺れた話をしていましたよ。」それは私にとって強烈な講演だった。中山さんは、池で溺れたあと生まれ変わり、1万年間プレアデスでの人生を過ごした。そして、目覚めると小学生の体に戻っていたのだ。彼が初めて大麻畑を見た時忽然とプレアデスの経験がよみがえってきた。プレアデスには、広大な大麻畑があるのだ。その後中山さんは、麻の普及に人生をかけていた。当時、ヘンプカーといって麻を燃料にした自動車を作って、全国を回っていた。

突然青年の態度が変わった。

 「そうですか。中山さんの講演を聞いたことがあるのですか。」嬉しそうだった。まるで旧知の人に出会ったように、堰を切って麻炭の素晴らしさを語りだした。

 彼は、早速建築中の現場に来てくれた。私たちは、診察室だけに麻炭を塗る予定だった。ところが、彼は一目でこの診療所が気に入ってしまった。

 「待合室も是非塗らせてください。天井も塗りましょう。」

すっかり興奮して、目がキラキラ輝いている。

 「床にも麻炭を入れたいですね。」

 実は、基礎の下には12方位の麻炭球が入っていた。土地の整地が終わり基礎工事の前に12方位の麻炭球を埋めたのだ。沖縄の伊香賀さんから届けられた麻炭球を、方位の担当者とボランティアが集まって埋めていく。そんな作業を1日かけて行った。

結局床の麻炭は採用されなかったが、診療所は、上下四方を麻炭で包まれた。自動ドアを開けて広々とした待合室に入った時、まるで別の空間に入ったような清々しさが感じられた。壁も天井も真っ白い漆喰が、居心地のよさを深めている。

6.ホームホスピス

 昭和24年私たちは小さな居酒屋に車座に座っていた。これからホームホスピスを作ろうと集まった有志たちだった。ホームホスピスは、一人暮らしの高齢者やガン末期の患者を家庭的な雰囲気の中で看取ろうとする運動である。宮崎の市原美穂さんが始め、瞬く間に全国に小さな看取りの家ができていった。

都内にも作りたいと立ち上がったのは、トマさんだった。彼女は訪問看護ステーション管理者、地域包括支援センター所長と経験を重ね、ホームホスピスを経験するため泊まり込みの研修も受けていた。トマさんは、愛情深い面もちの中に強い信念を持った人だった。

当時私は医師会で地域医療を担当していた。区民のための講演会として市原さんを招いた。すると驚いたことに150人以上の人々が集まり、医師会館3階の会場があふれてしまった。人々の関心の深さに驚かされた。

立ち上げに参加した有志は、訪問看護師、ケアマネージャー、医師などの他に、町会の役員や主婦などさまざまな人々だった。皆ホームホスピスを立ち上げることに情熱を注いでいた。

私は言った。「どうせ作るなら、みんなが希望を持てるものを作りたいですね。」

話し合いながら、これからすごいことが起きると実感した。何しろこのグループには、お金も力もないのだ。有志の情熱だけで、どんなものができあがるのか、わくわくした。

トマさんは、年2、3回講演会を開き賛同者を募っていった。NPO法人を立ち上げ、支援の基盤を作った。問題は、ホームホスピスが入る家だった。5人の利用者が入れて、家庭的な雰囲気で介護のできるスペースが必要だった。私たちは何か所か既に運営している家を見に行った。スタッフは、涙ぐましいほど心血を注いでいた。片手間では決してできない事業だ。しかし、トマさんはひるまなかった。むしろその重荷を楽しんでいるようだった。

地方では民家を借りて事業が行われている。私たちも貸してくれる人を探した。メンバーが2年間精力的に探し回ったが、全く見つからなかった。何人か提供を申し出てくださる方もいたが、家族が集まって協議すると纏まらなかった。都内は地価が高すぎるのだ。

平成29年クリニックの建て替えが始まると、私は2階にホームホスピスを併設できないか検討を始めた。だがそれはすぐ不可能なことが分かった。建築費用が高すぎた。

いよいよ本気で家を求める時が来たと感じた。物件を購入するのだ。

再び物件探しが始まった。中古物件を探し始めた。5人が暮らせて、エレベーターの設置できる建物を求めた。ところが、エレベーターが問題だった。建築確認検査済証がないと設置ができない。平成17年構造設計書を偽造した姉歯事件が起きる前の物件ではほとんど取得していなかった。消防法も立ちはだかった。スプリンクラーが義務付けられてしまった。最早中古物件で条件をクリアできるものはなかった。ついに新築物件を探し始めた。

すると、新築物件と中古物件の価格が変わらないことに気づいた。バブル当時に建てられた建物は、価格が割高になっていたのだ。物件が見つかると、現地を見に行く。何とかなるかと思って設計士に図面を送るとダメ出しが来る。そんなことを繰り返していた。どうしてだろう。

私はトマさんと何度も話し合った。するとトマさんの葛藤が見えてきた。法律の網は厳しかった。初めから完璧な施設を作ることは、ほぼ不可能だった。最悪違法施設のレッテルを張られる可能性もあった。それでもやるのか。トマさんは、苦しんでいた。

私も苦しんでいた。資金協力に限界があったのだ。物件の金額がある価格を超えると、強烈な緊張感が襲ってきた。それは不思議な体験だった。机上の計算とは違う何かの力が働いていた。

その日私たちは久しぶりに良い物件を見た。私は、これだと思った。夕方帰宅する途中、道路の正面にスーパームーンが現れた。巨大な満月だった。まっすぐ伸びた道路の果てに神々しく輝いていた。決まったと、直観した。

ところが、翌日また設計士からダメ出しが来た。

(そんな馬鹿な。)

私は混乱した。グッドオーメン、吉兆が天に現れたのに。だが、設計士は冷静だった。彼女の忠告は無視できない。私たちは再度気を取り直して探し始めた。すると、それまではなかなかふさわしい物件が出なかったのに、次々と候補が出始めた。見学が間に合わない程だ。

ついに決まる日が来た。南向きで日当たりが良く、風通しが良くて、駐車スペースがあり、近くに広い公園のある場所。都内ではありえない物件だった。すぐさま設計士も見に来た。完璧だった。

スーパームーンは、何だったのだろうか。おそらくその日トマさんが決心したのだ。宇宙は、私たちの決心によって動く。本当の信念に到達した時、初めて宇宙が動くのだ。

都内に初めてできたホームホスピスは、平成29年12月開所した。たくさんの人々の協力と愛情によって、現在も順調に運営されている。

7.直観とエゴ

 エゴとは、分離した心だ。もっと愛して欲しい。認めて欲しい。自分を一番大切にして欲しい。褒められたい。みんなエゴの働きだ。だがエゴを切り離して、捨ててしまうことはできない。この3次元世界では、エゴがなければあなたは生きられない。エゴがあなたを守ってくれているのだ。

 直観の中にエゴは混ざっていないだろうか。私はエゴとハイアーセルフからの直感を区別する方法を並木先生に聞いた。

 「区別しようとすると、あなたは迷ってしまいます。直観が来るたびにあなたはまずエゴからなのか、ハイアーセルフからなのかを考え始めるでしょう。考えることによって、迷いが生じます。それは地球の周波数です。だから、直観が来たらまずやってみるのです。その結果、自分にふさわしくないと感じたら、これは違ったと選択し直せばよいのです。考えないこと。迷わないことが大切です。」

 子供のころ、友達と彼のお父さんと電車に乗っていた。満員に近かった。私はお腹の調子が悪くて、ガスが漏れてしまった。その臭いこと。

 「誰か、すかしたな。くせえなぁ。」

 お父さんが嬉しそうに小声で言った。

 「そうですね。むにゃむにゃ。」私がすかしましたと言えなかった。恥ずかしくて、顔が赤くなった。

 それからは、勇気を持とうと思った。

 ある日、空いた電車の中で空き缶が転がっていた。初めは遠くの方で転がっていたが、なぜかだんだん私の方に転がってくる。あっちに行けと念じるが、徐々に近づいてくるではないか。ドアが開くと、私はさっと空き缶をつかんで降りてしまった。

 (できたー。)

 やってみると簡単だった。

 お年寄りが席を求めて電車に乗ってくる。

 「どうぞ、お座りください。」

 そんな会話も難しくなくなった。

 ある日ゴルフ練習場の駐車場に入るために車が長い列を作っていた。突然横から車が割り込んできた。私は言うべきだと直感した。車から降りて一言言いに行った。

 「皆さんずっと並んでいるのですよ。」

 運転席の男は、憮然として言った。

 「気が付かなかっただけだよ。」

 私は言うとすぐ自分の車に戻った。男性は、エンジンをふかしながら列から出ていった。私には、苦い後味だけが残った。言う必要がないことを知った。

 だんだん自分の中に巨大なエゴが巣くっていることが分かってきた。未だ癒されていない子供時代の自分だ。傷つき、孤立した、反抗心いっぱいのインナーチャイルドだった。いろいろなワークショップに参加するたびに、インナーチャイルドが登場した。リーディングでは、「あなたのインナーチャイルドが機関銃をぶっ放しています。」と言われた。私は毎日毎日自分のインナーチャイルドを抱きしめた。愛情を注ぎ、癒した。しかし、中々癒されなかった。人との間に壁を作っていることが分かった。いったいどうしたら完全に癒すことができるだろうか。

8.前世療法

 本屋で偶然ブライアン・ワイスの『前世療法』を見つけた。その内容に衝撃を受けた。退行催眠療法で、過去世の自分に会うことができるのだ。

 平成8年ごろ、私はようやくつながり始めたインターネットで前世療法を検索した。相模原でブライアン・ワイスに習ったという若い人が個人セッションを開いていた。早速会いに行った。

 自宅の小さな部屋で彼は誘導瞑想をしてくれた。気功の才能があるのか、変わったパフォーマンスを演じながら、徐々に私を深い催眠状態に導いた。私は気が付くと宇宙空間に漂っていた。そこから過去世に誘導された。

 「緑のピラミッドが見えます。透明で透けて見えます。たくさんの人々が道路を歩いています。通路に入りました。ここには誰もいません。小部屋があります。この部屋にも人はいません。」

 私はもう少しこの不思議なピラミッドを体験したかった。しかし、彼は次々と新しい展開へと私を誘導していった。

 「次の人生に進んでください。」

 「帆船が見えます。港に停泊しています。舳先の下の海面に人が浮いています。」

 男がうつ伏せに海面に浮かんでいた。中世の船乗りの服を着ていた。私はそれが自分であることに気づいた。

 「その人の中に入ってください。」

 「怖くて入れません。」

 私はしばらく男の周りを旋回していたが、結局入れずに戻ってきた。

 二つの光景を見ただけだったが、満足した。二つとも鮮明な映像だった。

 その後、恵比寿の村井啓一さんのところへ5回ほど通った。村井さんは学究肌だった。落ち着いた雰囲気と、十分な時間をとって催眠誘導してくれた。初めの数回は、ぼんやりとした過去世だった。だが、5回目に強烈な体験をした。

 私は地中海の小島に着地した。海岸で子供たちが遊んでいた。男の子が私に気づくと、自分の家に連れていってくれた。石造りの家に入ると、お母さんと妹がいた。明るい楽しそうな家庭だった。父親は船乗りで長い航海に出ていた。

 次の場面に進むと、同じ海岸に少年がうな垂れて座り込んでいた。案内されると家は黒ずんでいた。火事で母親も妹も死んでしまった。父親は酒浸りとなり家に帰ってこなくなった。親戚の家で少年は陰鬱な日々を過ごしていた。ある日、少年は帆船に忍び込んで港を離れた。少年は帆船の中で成長していった。

 私は少年と一緒にマストに上がった。海に沈む夕陽は、この世で見るもの以上に美しく鮮明だった。孤独と喜びが入り混じった少年の思いが伝わってきた。やがて少年はめきめきと実力を付けていった。帆船の運行を任されるようになると、少年ははるかに年下の船員に命令を出した。その威張ること、威張ること。少年は大人たちを顎で使っていた。

 そして、遂に最期の日がやってきた。舳先で船員たちに囲まれた少年は殺され、海に捨てられた。舳先の下の海面で死んだ私がぷかぷかと浮いていた。一番初めに見た光景と同じだった。死んだ少年が上空からこの人生を振り返る。そして、現在の私にメッセージを伝えるように誘導された。

 「バカでしたぁ。」

 私は号泣した。涙が溢れて止まらなかった。泣いて、泣いて、泣いて、どこから涙が溢れてくるのか分からない程泣いた。そして、私は癒された。少年は私のインナーチャイルドの影だった。我儘の限りを尽くし、威張り尽くした彼は、遂に癒されたのだ。

9.過去世

 私は前世療法に満足してしまい、村井さんのところへは行かなくなった。そしてインナーチャイルドヒーリングが誰にとっても重要だと思うようになった。そんな時、八ヶ岳の淡路紀世子さんに出会った。天使から教えられたという『光の言葉』を使って多彩なヒーリングを教えてくれた。何回か八ヶ岳の教室に通ううちに前世療法のクライアントモデルを依頼された。快く引き受けて、リクライニングチェアに座った。

 簡単な誘導瞑想の後、私は新潟の山村にいた。戦後、子供たちは集まって山の中へ入っていった。そこには戦争の残骸が落ちていた。鉄くずを拾って町で売ると小遣いになった。その場面を見て、私は衝撃を受けた。

 小学生の時、図書館で全く同じ内容の絵本を読んだ。私は身震いするほどの衝撃を受けた。自分がどうしてその絵本にそれほどまでに衝撃を受けるのかわからなかった。今、その場面に自分がいた。大人たちは、不発弾が落ちているから山に入らないように禁止した。しかし、子供たちは内緒で入っていった。

 ある日私は一人で山に入った。そしてすごいものを発見してしまった。米軍の戦闘機だった。パイロットが死んでいた。私は飛行服をまさぐり、時計や貴金属を失敬した。誰にも言わなかった。そして、一人町に出かけた。小金持ちになった私は村には戻らなかった。やがて不良の仲間になった。酒を飲み、賭け事に手を出した。

 場面が展開するうちに私は急に気がかりになった。私は昭和29年に生まれているのだ。その日が刻々と近づいていた。こんなところでワルをしていたら、間に合わない。どうなるのだろう。私は誘導瞑想を受けながら、やきもきしていた。

 突然酒場に男たちがやってきた。私は振り向きざまに銃で撃たれてしまった。撃たれながら、間に合ったと思った。

 過去世が現在の自分に大きな影響を与えていることを初めて実感した。紀世子さんのところでたくさんの過去世を見た。江戸時代駆け落ちをして見つかり切腹した過去世もあった。子供のころ夢で何度も切腹をした。そのたびは脂汗をかいて目が覚めた。ネズミになって、巨大な象に追いかけられる夢も何度も見た。中国では金持ちのお姫様だったが、気に入らないことがあって母に反抗して自ら生命を絶った。褒められるような過去世は全くなかった。

 いやしの村の中西研二は、大分県の温泉に行ったとき、自分がそこにいたことを思い出した。明治時代の過去世でその湯治場で長い時を過ごしたのだ。横町の路地の様子まで思い出したという。そこまで鮮明でなくとも、たくさんの場所の中からそこに惹かれるものがある時、過去世でその場所に関係していたのであろう。

 過去世とは何だろうか? まさしく繰り返しこの世の人生を生きた自分の歴史のことであるが、時には今回の使命を果たすためにある過去世をダウンロードしてくる場合もある。例えば、別の惑星から転生してきたばかりの新しい魂は、まったく自分の過去世を持っていないと地球での生活が不可能になってしまう。そのため今世の経験に必要十分な過去世を身にまとってから生まれてくる。

 バカバンは、アカシックレコードに保存されている過去世のデータのことをワサナと呼んでいる。人は、必要なワサナを付けてこの世に生まれてくるという考えである。

 どれが正しいということはない。すべて正しいのだと思う。昔クレオパトラだったという人が何十人いても構わない。ある人にとっては本当の過去世であり、ある人はワサナかも知れない。バシャールは、どちらにしても私たちには全く区別はつかないと言っている。

 過去世の存在は、死んでいるのだろうか。いえ、そうではない。その生命エネルギーはそこで今なおこの瞬間に生きているのだ。だから未来から訪ねてくる私たちと対話ができる。新しい経験すら生み出すことができる。

 ある脳外科医は、こんなことを書いている。過去世では、同じ姉と妹として極めて緊張した関係を持っていた。その過去世を経験したクライアントが重大なことに気づき今世の姉妹の関係が変わってしまった。彼女は再び同じ過去世を訪ねた。すると、過去の二人も全く違う姉妹になっていた。過去世もまた多次元的存在なのだ。

 バシャールは自分の過去世であるダリル・アンカを通じて、現代の地球に多くの情報と変容をもたらしている。ある時こんな質問を受けた。

 「現在の地球の人々が大きく変容してしまったら、未来のあなた方は影響を受けないのですか?」

 それはとても鋭い質問だった。バシャールはこう答えている。

 「全く影響を受けません。」

 この返答の解釈には、いろいろな意見があるだろう。どれを選ぶかは、あなたにお任せしょう。

10.組織の毒

 平成14年妻と私は湯河原の天命庵に向かった。芹澤光治良が『神の微笑』の中で描いた伊藤青年が大徳寺昭輝の名前で活動していると聞いたからだ。天理教教祖中山みきが親様として伊藤青年に降りてきて、新しい時代の真理を芹澤光治良に伝えた。晩年の芹澤はその言葉を紡いで8冊の本を執筆した。それはまさに奇跡の書と言っても良い。素晴らしい本となった。

 その芹澤は平成5年96歳で亡くなった。8年間にわたって芹澤が書き綴った伊藤青年が活動していると聞いて、私は無性に会いたくなった。どんな人なのだろう。親様にも会いたかった。

 その日は日曜日だった。天命庵は美しい純日本風の邸宅だった。既に大勢の人が庭に集まっていた。午前中は大徳寺のお話だった。40歳くらいのがっしりとした体格の青年だった。それはそれは優しい物腰と話しぶりだった。午後になると親様が舞を舞った。美しい日本舞踊の仕草にうっとりとする。大徳寺が親様になると、一回り身体を小さくして三つ指を突くような所作に変わった。口がすぼみ、いかにもお婆さん然とする。最後に参加者一人ひとりを祝福して会が閉じられた。

 芹澤光治良の死後、大徳寺が活動を始めると瞬く間に人々が集まってきた。天命庵を中心に会員が増えていった。すると会員の中から宗教法人を作りたいという機運が盛り上がった。しかし、大徳寺は団体を作る気がなかった。それでも集った人々はどんどん団体を構成していき、いつでも宗教法人になれる組織となった。大徳寺は断固拒否した。その真意が幹部にはっきりと伝わった時、組織は崩壊した。それまであれほど熱心に活動していた人たちが散り散りばらばらになり去っていった。中には大徳寺を誹謗中傷する人まで現れた。だが大徳寺は何も言わずにじっと耐えた。

 現代のスピリチュアルリーダーは組織を作らない。組織を作れば、便利かもしれない。早く活動が展開するかもしれない。しかし、組織の弊害の方が大きい。組織は、必ずピラミッド構造になる。会員の間に上下ができ、お金の流れが出来上がる。そして組織は腐っていく。人間関係の軋轢が生まれ、組織を維持するために無駄なエネルギーを消耗するようになる。理想とは程遠い現実が生まれてくる。

 ドランバロ・メルキゼデクのワークショップに参加した時、ドランバロはすべての準備を一人で行っていた。スライドの準備、マイクの調整、はてはエアコンの調整まで一人でこなした。バシャールのダリル・アンカも組織を作らなかった。エクトンのリチャード・ラビンも同じだ。私は、彗星のごとく現れた並木先生が組織や団体をどのように扱うのか興味を持った。やはり、全く組織を作らなかった。だが、長年活動をしていれば古参の取り巻きが自然と出来上がる。集ってくる人々の中で自然と重きを置かれるようになる。新たなヒエラルキーが生まれてしまう。

 並木先生は古参の人々に対して厳しかった。自立するように強烈に促した。そして、するりと指の隙間をすり抜けて去っていった。急に冷たくなる師に当惑する。ある人は疑念を抱く。二度と会いたくないと思う人もいるかも知れない。

 真理は十分に一人ひとりの中で涵養されている。最早並木先生に頼る必要はない。自分で自分の道を切り開く時が来たのだ。自分の言葉で語りなさい。自分の魂を自分で養いなさい。最重要事項は、あなたの覚醒であって組織ではない。あなたの目覚めこそが必要なのだ。

 『神との対話』のニール・ドナルド・ウォルシュは、神と出会う前にキュブラー・ロスの事務所で働いていた。精神科医のロスは、死に直面する人々のために活発に活動していた。特に愛する人を失い残された人たちのグリーフケアに力を注いでいた。ウォルシュはその才能をいかんなく発揮して強い生き甲斐を感じていた。

 そんなある日、ロスに呼び止められた。

 「あなたはいつまでもここにいる人じゃない。さあ出かけて、自分の道を探しなさい。」

 突然ウォルシュはロスの事務所から追い出された。ウォルシュは混乱した。もっとも真実に近いと感じていた場所から放り出されてしまったからだ。ウォルシュの転落が始まった。やがて交通事故にあい、頸椎を骨折した。職も失い、家族も失い、ホームレスになった。だが、そこからあの美しい本が生まれてきたのである。

 さあ、あなたも一人で出かけなさい。道はあなたの前に開かれている。進むのはあなただ。あなたの人生をあなたが切り開くのだ。誰もまねのできない、あなただけの道を進みなさい。

カテゴリー:ゆきちゃんブログ

タグ: