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出雲巡礼2021秋

投稿日:2021/10/08

稲佐の浜の夕陽 弁天島の陰に秋分前の太陽が沈む

稲佐の浜の夕陽 弁天島の陰に秋分前の太陽が沈む

プロローグ

 2021年冬至、いよいよ人類意識の覚醒が始まる。光は日本人から全世界へと拡大していく。いったい日本のどこから覚醒が始まるのだろうか。私は、出雲からだと思う。今大勢の人が出雲に引き寄せられている。大国主命の国譲りの神話に深く彩られた出雲の地に、不思議と人々は吸い寄せられるように引き寄せられている。

 なぜだろうか。1万3000年前、人類意識の大崩壊が起こった。何十万年も人類を育んできた高次の存在達にとってもそれは想定外の大事件だった。大陸は沈み、極移動が起こり、アトランティス文明は跡形もなく消え去ってしまった。それだけではない、生き残った人類も毛むくじゃらの野蛮人まで意識レベルを落としてしまった。

 6000年前、漸く文明を受け入れられる程度に人類意識は目覚め始めた。世界各地に文明が誕生した。そのすべての文明の発祥の地が日本だと言われている。神代の時代の記憶の中に、その秘密は隠されているはずだった。

 私は、2019年5月並木良和先生のチャネリング講演会『ステラ』に参加した。天照大神は、実は女性ではなく男性だった。ニギハヤヒノミコトと瀬織津姫こそ日本創生の根本の神であった。それが、長い間隠されてしまい、力を発揮できないでいた。今、日本人の意識の中に、ニギハヤヒと瀬織津姫が復活する時、創生の神々も本当の力を発揮できるようになる。

 私は、創生の神々と1万3000年の歴史の謎の答えを求めて、出雲へと旅立った。その3日間は想像以上に素晴らしい旅となった。次々と謎が紐解かれていった。さあ、あなたも一緒にこの素晴らしい謎解きの旅に出かけましょう。

出雲巡礼2021

1.出雲縁結び空港-人類意識の上昇

 9月19日午前8時35分、JAL277便は予定通り出雲縁結び空港に着陸した。空港を出ると静かな田園風景が広がっていた。空は青く、ところどころに雲が浮かんでいる。360度視界が開け、そよ風が心地よい。昨夜、台風14号が駆け抜けた東京地方とは打って変わって、穏やかな天候だった。

台風14号は、異例ずくめのコースをたどって、九州から関東へと走り抜けていった。東シナ海では、行ったり来たりとN字型を描き、観測史上初めて福岡県に上陸した。四国を横断し、和歌山県に再上陸して太平洋に抜けていったのだ。出雲は台風一過の青空だった。台風がすべての汚れを吹き払ってくれたかのようだった。

私たち夫婦とミホリーナ夫婦、四人旅だった。私は、8月初めに出雲巡礼を企画して、飛行機や旅館を手配していた。ところが、8月24日突然ミホリーナから、「9月の連休に、出雲大社に行きたいね~」とラインが入ってびっくりした。誰にも言っていなかったのに、私たちはまさにその日に出雲大社に行こうとしていたのだ。

ミホリーナはやけに直感力が鋭かった。特にパワースポットには目がなかった。彼女の行動力には、何度も度肝を抜かれた。ミホリーナというのは、並木良和先生がつけたあだ名だった。彼女は2ヶ所の保育園の理事長である。子供が大好きで、子供たちが愛情に包まれて溌剌と成長できることを心底願っていた。今回は、彼女とご主人のパパさんが同行した。

私たちは、2019年1月並木先生主催の香港リトリートで初めてミホリーナに出会った。小柄な体のどこにそんなバイタリティが隠れているのかと思うほど精力的に活動していた。次に7月のハワイリトリートでも一緒だった。新型コロナウイルスの流行のためその後のリトリートは中止になったが、私たちは何回か神社巡りに同行した。そして、今回ついに出雲巡礼にも同行することになった。

 出雲大社は、かなり前からいつか尋ねたいと思っていた。

「あなたが行きたいと思ったら、それは呼ばれているという意味ですよ。」

並木先生はよくそんな表現をした。数多(あまた)ある神社仏閣の中から、そこへ行きたいと思うのは偶然ではない。過去世かどこかで何かしらの縁があるに違いないのだ。

 2019年並木先生は毎月1回チャネリングを通じて神仏と交流するワークショップ『ステラ』を開催していた。5月のテーマは、「ニギハヤヒと瀬織津姫」だった。私は、出雲族の国譲りと弥生族の天皇制の間の関係を知りたかった。縄文時代の最後の代表ともいうべき出雲族は、アマテラスオオミカミに代表される弥生族によって滅ぼされ、歴史の表舞台から姿を消してしまう。

 以後弥生族の系譜を引く万世一系の天皇制によって日本は導かれてきた。明治維新によって植民地化をもくろむ列強に対抗して独立国家を守ったが、遂に1945年敗戦の憂き目を甘受することになった。ある意味で弥生族の歴史の破綻である。今、出雲の力が鮮烈によみがえろうとしている。出雲へ、出雲大社へと人々が引き寄せられている。

 日本国創生の時代に何があったのだろうか。そして今、次の時代を紡ぎだすエネルギーはどこからやってくるのだろうか。私たちは、壮大な疑問を携えて、出雲にやってきたのだった。

1万3000年の人類歴史が、今大転換の時を迎えている。2012年(平成24年)12月21日マヤ歴が終わった時、地球の覚醒が始まった。地球の意識が3次元から5次元へと向かって上昇を始めたのだ。そしてついに、2017年(平成29年)人類意識の覚醒が準備された。2017年から2021年冬至までが選択のための準備期間だ。準備期間が終わるといよいよ人類意識の覚醒が始まる。3次元世界から5次元世界へと意識の上昇が始まるのだ。

3次元、4次元、5次元といってもどんな意識状態なのか理解するのは難しいかも知れない。もちろん3次元世界とは今私たちが住んでいる世界だ。この世界の特徴は、善と悪、光と闇が綱引きをしている二元性の世界だ。まるで振り子のように、世界は善と悪の間を行きつ戻りつしている。第2次世界大戦の悪夢と狂気の戦場から立ち上がった人類は、世界平和を思い描いて善に向かって理想を掲げた。だが光明が差し始めた時、朝鮮戦争から冷戦時代、ベトナム戦争へとつき戻されていった。こうして心では平和を求めているにもかかわらず、何十世紀にもわたって常に戦争を繰り返しているのが3次元世界だ。

死後の世界は、幽界、霊界、神界と別れている。4次元世界は霊界に相当する。ここでは悪は既に力を失っている。人々は柔和で喜びに溢れ、智慧と愛の探求にいそしんでいる。もはや善を求め、光を求めても攻撃されたり、落とし穴にはまったりすることはない。二元性の世界が終わり、すべての心が光を求めて活動している。

神界に相当する5次元世界となると、様相は一変する。心が拡大して自己の英知と繋がり、自然界と常に交流しながら意識の具現化を行っている。源のエネルギーが心の底から湧き上がり、常に至福感に満たされた状態となる。

6次元世界に入ると、個人の意識から集合意識へと意識が拡大する。すべての人の心が手に取るように分かり、個人ではできなかった壮大な計画を共同して実現できるようになる。一人でありながら、複数の場所に同時に意識を向けることができ、複数の体験を同時に行えるようになる。肉体を持って存在できる最高の状態が6次元だ。

7次元になると、もはや肉体的存在ではなくなる。意識体として存在し、自己を光として認識するようになる。どんな肉体的形態でも自由に創造することができ、宇宙のあらゆるところに瞬時に現れることができる。アセンデッドマスターと呼ばれる意識状態である。

2017年から2021年冬至までが、すべての人にとって選択の期間である。このまま3次元世界で生き続けるのか、5次元へ向かって意識の飛翔を始めるかの決断を求められている。自然災害、大雨、洪水、病気、倒産、新型コロナウイルスなどを通して、誰もが今までの生き方から目覚めるように誘われている。

この選択の期間が終わると、いよいよ飛翔の助走が始まる。カルマを精算し、概念を手放し、心の闇を洗い流してきた人々が、本当の覚醒を体験し始める時がやってくる。これまではどんな努力をしても、大した心境の変化が生まれなかったと思っている人にも、目くるめくような意識の変化が訪れる。あなたを取り巻く自然界が、あなたの心と同調を始める。心を合わせて一緒に活動しようと人々と交流を始める。物事が円滑に動き始め、心が抵抗に直面することが減っていく。平安と至福がたびたび心を満たすようになる。

そんな新しい時代の息吹を感じるために、私たちは出雲にやってきた。縄文時代の愛と平和の感性を色濃く残すこの地から、2021年冬至以降の世界を体感するためにやってきた。まずは、古い時代の滓(おり)を断捨離するために、祓いの神社へと向かった。「穢れ」を「祓う」のだ。

2.「穢れ」を「祓う」

  私たちは、迷い逡巡することが既に「穢れ」であることを忘れている。右か左か、損か得か、勝ち組か負け組か、そんな選択にエネルギーを費やすことが「穢れ」だということすら忘れている。悩み悩んだ結果、頭がオーバーヒートしてボーとなってしまい、遂には夜眠ることもできなくなってしまう。それでも考え続けようとする。何故ならそれ以外の方法を学んできていないからだ。

 「穢れ」とは「気枯れ」である。身体を循環する気の流れが滞ってしまうことが「穢れ」なのだ。だとすれば、迷いを手放し、体の中を自然に循環する気の流れにゆだねてしまえばよい。そうすれば、自然と良いアイデアが浮かんでくる。ハッとする名案を思いつく。

 私たちは今でこそ仲の良い夫婦になった。だが、ここまで来る道は決して平坦ではなかった。結婚して5,6年頃に大きな危機があった。

男性は、社会に出て仕事を覚え、ちょうど責任を負うようになる時期である。仕事のために深夜まで働くことも多くなるだろう。子供が生まれ、生活費もかかるようになる。ますます一生懸命仕事にのめり込んでいく。仕事の付き合いで、酒宴の席が多くなる。ノミニケーションだ。

女性は、待望の子供が生まれ、子育てに夢中になる。初めはどんな手抜きもせずに、最愛の子供を最高の状態で育てたいと必死に頑張る。母性の命じるまま、愛情を注ぎ続ける。そして、二人、三人と子供が増えていく。家事の仕事量もうなぎのぼりに増え、自分の心に誓ったケアが徐々に不可能になる。夫は給料を入れてくれるかもしれない。だが、酒のにおいをぷんぷんさせて、毎晩の深夜帰宅。子育ての苦労話に耳も貸してくれない。

相談すれば、「お前に任した。お前ならできる。信頼してるよ。」と、話を聞きもしない。片づけても、片づけても、家はどんどん汚れていく。ついに夫が言う。

「もうちょっときれいにできないの。」

「だったら、あなたがやってよ。」

 女性は切れてしまう。夫は、妻がなぜ怒っているのか、皆目見当もつかない。

「俺だって、夜中まで働いているんだぜ。」

「いつも、酔っぱらって帰ってきて、そのまま寝ちゃうじゃない。」

「好きで飲んでるんじゃないよ。仕事だよ。シゴト。」

「そうね。酔っぱらうのが、仕事なんでしょ。」

 ここまでくれば、あとは奈落の底に落ちるのは時間の問題だ。二人の心の中に、不満とやるせなさが鬱積していく。誰かにしゃべってうっぷんを晴らしたくても、そんな話を聞いてくれる人などいない。家の中に、「穢れ」が満ち満ちていく。「穢れ」を慕って、「禍」が忍び寄ってくる。

 最初は湿疹だった。最近なぜか虫刺されが多いな。ふと思う。ところが日を追うごとに虫刺されは全身に広がっていく。手足だけではない。わき腹から背中まで、痒くて仕方がない。かゆみ止めを塗っても、古い湿疹は治まるが、次々と新しい湿疹が顔を出す。どうして自分だけが刺されるのだろう。原因が分からない。

 私はとうとう知り合いの皮膚科を受診した。肌を見せるなり先生が言った。

「ダニじゃない。」

「ええっ。ダニですか。」

「あんたちょっと服を脱いで見せてみなさいよ。」

 ワイシャツを脱ぎ、上半身裸になる。

「やっぱり、ダニよ。」

「だって、引っ越したばかりの新しい家なんですよ。それに、妻も子供たちもたいしたことないですよ。」

「そんなこと言ったって、これはダニよ。ダニ退治をしなきゃ治らないわよ。」

 それから晴れた日には毎朝布団干しをした。毎日毎日畳に掃除機をかけた。だが、一向に湿疹はよくならなかった。妻と相談した。

「思い切ってダニアースしようか。」

「だめ。絶対ダメ。けむりが家中に充満しちゃうのよ。洗濯物だって、布団だって、薬まみれになっちゃうじゃない。」

「そうかぁ。だめかぁ。」

 ついに消毒の専門家に家を見てもらった。畳を持ち上げ、畳の下の埃を顕微鏡で調べてくれた。

「ダニですね。」

「引越してまだ3年しかたたないんですよ。」

「最近新築の家にダニが多いのですよ。畳の下にダニ取りシートを敷かなくなったので、ダニが出ることがあるのですよ。別に不潔にしていたから、ダニが出たわけじゃないのですよ。」

 専門家は、妻をかばって説明してくれた。ダニの種類に応じた消毒をしてくれた。それから、瞬く間に湿疹は治ってしまった。だが、「穢れ」が消えたわけではない。

 郊外の我が家の周りには、まだ緑が少し残っていた。直ぐそばには畑もあった。そのせいか、虫もたくさんいた。コガネムシは当たり前の遊び相手である。ゾウリムシ、ハチ、クモ、バッタ、トンボ、アゲハチョウ、ヤモリなど、家の周りは昆虫たちの宝庫だった。だが、次第に家の中まで、虫たちの宝庫になっていった。

 ある日、2階の畳の部屋に巨大なクモがいた。そんな大きなクモを見たのは初めてだった。手足を伸ばすと10㎝もありそうなクモだった。子供のころから、クモは家の守り神だよと教わってきた。殺すわけにはいかない。どうしたら良いのだろうか。

 ちょうど空の菓子箱があった。クモはじっとしている。そっと上から箱をかぶせた。突然クモが暴れだした。ガサゴソ、ガサゴソ。ものすごい音を立てて暴れた。だが、逃がすわけにはいかない。

 私は箱の下にそっとボール紙を挿入して、蓋をした。

「やったぁ。」

 思わず叫びたくなるほど、うまくいった。クモを庭に逃がすと、ほっとした。

 最近やけに昆虫が多いな。そう思いながら、階段を降りていると、真っ黒い飛行物体がへたくそな飛び方をしながら目の前を横切った。と思った瞬間、なんと私の顔にぶつかって下に落ちた。

「なんだぁ。」

 視界の端を黒い虫がこそこそと逃げていく。ごきぶりだ。よりによって人の顔にぶつかってくるとは、前代未聞。早々にゴキブリホイホイを買いに出かけて、家中に仕掛けた。

 次は、アリだった。ある朝目覚めて食堂に行くと、部屋を横切っている黒い行列があった。「うそでしょう。」

 庭からガラスのサッシの隙間を通り抜けて、食堂を斜めにアリが行列を作って横切っているのだ。

「お母さん、アリだよ。アリが行列を作ってる。」

 私は大声を上げて妻を呼んだ。2階から降りてきた妻がこともなげに言った。

「アリなんて、何よ。」

 さっと掃除機をかけると、行列は消えてしまった。妻は何もなかったかのように、2階に上がっていった。私はきょとんとしていた。妻はこんなに昆虫に強かったのか。たくましい主婦に成長したのか。驚きで一杯だった。

 私は、アリ用の殺虫剤を何種類も買ってきた。家の中用や庭用、サッシから侵入を防ぐものまで何種類も販売されていた。

 (なんだ。結構みんな悩まされているんだ。)

 我が家が特別ではないことに、ほっとした。

 土曜日の夕方、久しぶりに早く帰宅した。妻は子供たちと買い物に出かけていた。テーブルには美味しそうなカレーライスがラップをかけておいてあった。妻のカレーは私の大好物だった。私は、ラップを外し、スプーンでカレーをすくって早速口に運ぼうとした。

 その瞬間、わが目を疑った。そんな馬鹿な。こんなことがあって良いのだろうか。

 目の前の空間に、虫の幼虫が浮遊しているのだ。ウジ虫よりも細身の昆虫が、空中でダンスをしていた。私は、スプーンを口元まで近づけたところで、凍り付いてしまった。幼虫と目があった。二つの目が笑っている。私は目を凝らして幼虫を見つめた。初めて、幼虫の上に細い糸がスーッと伸びているのが見えた。ほっとした。幼虫は浮遊していたのではなかったのだ。垂れ下がっていたのだ。

 頭上の電気の傘を見ると、ほかにも幼虫がいる。

 待てよ、もしかしたら。私はカレーの皿をそっと持ち上げて、底を見た。やっぱり。

 妻が帰ってくると、私は言った。

「む、虫が。虫が台所中を這い回っている。」

「ほんとだわ。どこから出てきたのかしら。」

全然動じていない。早速、ダニでお世話になった消毒業者に電話をしてくれた。

「コガネムシの幼虫ですって。小麦粉の袋がないかって言っていたわ。口が空いていると、幼虫がわくんですって。」

 私たちは、早々にキッチンの下を調べた。専門家の言ったとおり、口の空いた小麦粉の袋がそこにあった。その中には愛らしい幼虫たちが楽しそうに這いずり回っていた。

 二人の関係はかなり緊張したものになっていた。これはやばい。何とかしなければ。結婚したころは、よく二人で居酒屋に行った。たわいのないおしゃべりをしながら、楽しい時を過ごした。ところが、今はほとんど会話がなくなってしまった。

「飲みに行こうよ。」

 私は妻を強引に誘った。

「無理よ。子供が4人もいるのよ。行かれるはずがないじゃない。」

「大丈夫だよ。ほんのちょっと出かけるだけなんだから。」

 すると7歳になる長女が言った。

「行ってくればいいじゃん。私が面倒みるから。」

 長女は妹や弟の面倒を見るのが大好きだった。だが、一番下はまだ1歳にもなっていなかった。妻が渋っていると、長女が行きな、行きなと妻を説得してくれた。子供たちのお菓子や寝る支度を済ませると、妻が重い腰を上げた。長女が玄関まで、末っ子を抱っこして見送ってくれた。

「じゃあ、頼んだね。」

「大丈夫よ。」

 長女にすべてを任せて、玄関の扉を閉めた。

 二人で夜の街路を歩いた。毎日通いなれた商店街がまるで別の景色だった。夜の風が心地よく頬を撫でていった。居酒屋は大勢の人であふれていた。その活気に包まれながら、まずは生ビールを注文した。二人で乾杯する。堰を切ったようにおしゃべりが始まった。他愛のないおしゃべりだ。だが、緊張が音を立てて崩れていくのが分かった。ほろ酔い加減がさらにもつれた緊張の糸を解(ほど)いていく。「穢れ」が「祓われた」瞬間だった。

 酔って二人で家に戻ると、子供たちは既に眠っていた。居間にはお菓子とおもちゃが散乱していた。子供たちもどんちゃん騒ぎをしていたのだ。今夜は無礼講だよ。何をしても大丈夫。怒られないよ。そんな子供たちの笑い声の後が残っていた。

3.賣布神社-祓え戸の神

 賣布神社は、松江市の中心街にある。すぐそばを大橋川が流れる街中の神社だった。空港でレンタカーを借り、宍道湖の畔(ほとり)を走り続けると1時間ほどで賣布神社に着いた。道は空いていて、左手には穏やかな湖面が広がり、右手は山陰本線のレール越しにのどかな田園風景が広がっている。日曜日の朝なので、市内に入っても人通りは閑散としている。もっとも、これは新型コロナの影響だった。三(さん)蜜(みつ)回避のため、観光地はどこも人通りがまばらだ。

賣布神社 拝殿 端正なつくりの建築様式 屋根が翼を広げたように上を向いている

賣布神社 拝殿 端正なつくりの建築様式 屋根が翼を広げたように上を向いている

荒川亀斎の龍刻 龍の気迫を伝える眼光と全身にほとばしる霊気に打たれる

荒川亀斎の龍刻 龍の気迫を伝える眼光と全身にほとばしる霊気に打たれる

 鳥居と山門をくぐると参道が拝殿までまっすぐに伸びている。右手の手水舎(ちょうずや)で手と口をゆすぎ、拝殿へと向かう。既に辺りの雰囲気は街中と隔絶している。大きな松の木が境内を取り囲むように立っている。心静かに『祓いたまえ、清めたまえ』と、三礼四拍手する。静けさが心の底に沁みてくる。

 妻は、社務所に御朱印帳の記帳に向かった。お札やお守りの前に置かれたテーブルにお清めの塩を入れたお茶がふるまわれていた。口に含むとほんのりと塩の味がする。

 賣布神社の案内には、祓いの本質が見事に表現されている。

「神ながらの道の原点は、大自然の営みに畏敬の念をはらい、自己の生き方を律して、諸々の禍(わざわい)や過ち、そして気枯れ(穢れ)などあればこれを見直し、人本来の生き方や生命力をよみがえらせることにあり、それが「祓え・清め」の真の意義であります。」

 ご神木の霊気が満ち満ちているのが感じられた。地中からエネルギーが螺旋を描いて湧き上がり、佇む(たたずむ)ものに生命力を与えている。地のエネルギーは渦巻いて大空へと放射されている。太陽の光が柔らかくあたりを包み込み、大地と大空とのエネルギーの循環を支えている。しばしの間、大自然の気の循環に身をゆだねる。

境内を松の巨木が取り囲んでいる。大地から螺旋を描いて上昇する霊気が満ち満ちていた。

境内を松の巨木が取り囲んでいる。大地から螺旋を描いて上昇する霊気が満ち満ちていた。

「穢れ」とは、なんだろう。穢れとは心の中の葛藤である。本来私たちの本質は、光一元であって、迷いもなければ苦しみもなかった。源は愛そのものであり、光そのものだった。しかし、光しか存在しなければ、どうして自分が光であることが分かるだろうか。そこにわずかでも暗さがなければ光は光としての自分を認識することができない。そこで、光は自分ではないもの「闇」を創造した。それが宇宙の創造である。

 人間は、源が自分自身を体験するために源によって創造された。この宇宙には、源ではないものは何も存在しない。しかし、人間は源との深い絆を忘れた。絆を忘れただけではない、自分が光であることも忘れた。そして、完全な自由を与えられた。完全な自由とは、どんな悪を犯すことも、どんな残虐なことをすることもできる自由である。

 今の世界を見てみよう。どれ程の自由を人類が与えられているかがすぐわかる。何千人、何万人を殺戮し、無実の罪で牢獄に閉じ込め、原子爆弾をさく裂させ、拷問し、遂には自殺する自由まで与えられている。

「神も仏もあるものか。」

「神がいるなら、どうしてこんなひどい世界をほっておくのか。」

 そう思うかもしれない。それにはからくりがある。そう、3次元世界は幻想なのだ。生まれてから死ぬまでの、ほんのひと時の舞台に過ぎない。本当の世界、愛と喜びの世界は4次元以降に実在している。だが、光一元の世界を体験するためには、どうしても「闇」が存在しなければならない。現世とは、私たちの戯れ(たわむれ)の場所なのだ。思う存分自由にありとあらゆることを楽しめる巨大なテーマパークのはずだった。そして、死んで天国に帰り、大勢の魂と体験を共有し、再び本来の自分として生きるためのつかの間のプレイランドのはずだった。

 ところが、地球の人類に途方もないことが起きた。肉体を脱いでも、天国に戻れなくなってしまったのだ。人々は何度も生まれ変わり、死に変わり、顕幽を行き来しても、全く本来の世界を垣間見ることもできなくなってしまった。何世紀も、何十世紀も、「闇」の中を放浪する牢獄に閉じ込められてしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。源の誤算なのか。いやいや源に失敗は存在しない。不完全はあり得ない。

4.佐太神社-ベジカパイシス

 賣布神社で汚れを祓った後、私たちは佐太神社に向かった。松江市から車で20分ほど北西へ向かうと、佐陀(さだ)川の畔に佐太神社がある。主祭神は、猿田彦(さるたひこの)大神(おおかみ)である。導きの神、道開きの神、長寿の神、交通・海上守護の神、地鎮の神として信仰されてきた。

 車で佐陀橋を渡ると大きな鳥居の右側にある駐車場に車を止めた。抜けるように青い空に雲が浮かんでいる。空が大きかった。手水舎で清めた後、山門(随神門)を潜った。広い境内の向こうに三つの社(やしろ)が並んでいる。御本殿三社だ。中央の正中殿の祭神が猿田彦大神、北殿が天照大神と瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)、南殿が素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)である。

佐太神社 中央が猿田彦大神を祀る正中殿、右が天照大神と瓊瓊杵尊を祀る北殿

 参拝の前に右手の社務所によって、祈願割符を授けてもらった。社務所の人が丁寧に祈願割符のやり方を説明してくれる。まず佐太神社の四つの社を参拝した後、鳥居を出て左側にある田中神社にお参りする。そこには、二つの社が背を向けて建っている。佐太神社側にあるのが西社で木花開耶姫(このはなさくやひめの)命(みこと)を祀っている。縁結び・安産の神である。背を向けて東側を向いているのが東社で、盤(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)を祀っている。悪縁切り・長寿の神である。

 まずは、正中殿にお参りをした。三礼四拍手一礼は、とても清々しかった。拍手が四方に響き、心が洗われる。次に北殿にお参りしようとした時、社殿の垂れ幕に描かれた神紋にびっくりした。二つの円が横に重なり合ったベジカパイシスの図案だった。祭神は、天照大神である。

天照大神を祀る北殿の神紋は、ベジカパイシスだった。輪違紋と呼ばれる。

天照大神を祀る北殿の神紋は、ベジカパイシスだった。輪違紋と呼ばれる。

 4年前クリニックを新築した時、新しいロゴマークを創ることになった。いろいろ考えたが、結局宇宙創造の最初のシンボルであるベジカパイシスを採用したのだった。このシンボルは、ネットで検索すると意外と使われていなかった。ところが、天照大神のシンボルとしてはるか昔から佐太神社に掲げられているとは、思っても見なかった。

 その天照大神の本当の姿は、ニギハヤヒノミコトだった。

 もしかしたら、ずっとニギハヤヒノミコトが私たちを導いてくれていたのかも知れない。

2019年(令和元年)5月並木先生のチャネリングワーク『ステラ』のテーマは、ニギハヤヒと瀬織津姫だった。神田駅近くの会場は満員の盛況で熱気に包まれていた。この二柱こそ日本創生の神々であると聞いていた。ちょうど5月1日に新天皇が即位したばかりだった。時代は平成から令和へと移り変わった。

同時に、私は、なぜ出雲族の大国主(おおくにぬしの)命(みこと)が国譲りをしたのかも知りたかった。縄文を代表する出雲族は歴史から姿を消し、出雲大社だけが残されている。弥生族は、稲作と鉄器をもたらし、天皇制によって日本を統一した。しかし、縄文の純粋性は失われ、絶え間ない戦争の歴史へと変貌してしまった。天皇は出雲族ではなく、弥生族の中心として存在している。

私は質問した。

「伊邪那(いざな)岐(ぎ)、伊邪那(いざな)美(み)は、ニギハヤヒと瀬織津姫と同じ存在なのですか。」

並木先生は答えた。

「それで良いです。名前を変えられてしまっているのです。彼らは人間ではなく、神です。神と言っても創造主ではなく、宇宙人なのです。シリウスからやってきています。天(あま)の磐(いわ)船(ふね)に乗って、飛び回っていたのです。その流れで、天皇が出て来ています。」

「縄文の代表は出雲族の大国主命なのですが、弥生族に攻められて、国譲りをして黄泉の国に入っていきました。国譲りにはどういう意味があるのですか。」

「弥生族は、縄文に侵略してきた者たちであって、高い波動が落ちていってしまいました。純粋性がなくなってしまったのです。宇宙とつながるとか精神性、霊性が失われてしまったのです。その結果、欲や我の時代に変わってしまったのです。」

「しかし、弥生族の中心に天皇が存在していますよね。」

「天皇家の中に、精神性をもたらしているのです。(ニギハヤヒのエネルギーが天皇に)オーバーシャドウしていたのです。天皇の意識を彼が共有していました。彼の意思を天皇に伝えるのです。伝えられた天皇がその通りに動いて行く。意識を共有しているのです。」

「令和の時代になって、大嘗祭などを通して、天皇は精神性を受け継いでいくのですか。」

「大嘗祭を通じて、神界が動きます。天皇が交代すると、天皇を守護する神たちも交代するのです。神界の仕組みが変わります。必ず毎回神界が動くのです。

 まって。(声を聴いている)

 神の世界は、完全な世界ではないのです。神の世界にも争いがあります。勢力争いがあるのです。上にあるがごとく、下があると言うように。今、乱れていたものが、急速に統合へと向かっています。それが反映されるから、地上にも統合の流れが出てきます。」

 並木先生の説明には、よどみがなかった。けれども、細かい脈略になるといつも答えがぼかされている。あまりにはっきりと表現したときに、横やりが入ってくるのを警戒していた。

「これ以上話すと、ちゃちゃが入るんだよね。話せる範囲で、なるべく皆さんが分かるように話しているのですが。」

 そんな風に説明することが多かった。

質問する私たちは、並木先生が「な・い・しょ」と答えるのが楽しくて、核心を突こうとする。

 私の後には、もっと熱心で歴史に詳しい人たちが質問した。

 大和に降臨したニギハヤヒが王朝を築いたが、ニギハヤヒの弟ニニギノミコトが高千穂に降臨してついに大和を征服してしまった。弟が兄を制圧してしまった。ニギハヤヒはどう思っているのかと質問した。

「分け御霊であると言っています。」

「二人が統合した形で降臨したら、ベストだと思うのですが?」

「その時は、別々に分かれることで、それがベストだったのです。その時は、分かれた方が良かったのです。」

 『分け御霊』という説明に、圧倒的な説得力があった。驚くほど詳しい知識を持った質問者も思わず納得した。

 ニニギノミコトとニギハヤヒノミコトが分け御霊であったなら、大国主命と天照大神も分け御霊である。出雲族も弥生族も分け御霊である。ある目的を達成するために、わざわざ二つに分かれて、一見争っているように見えながら歴史を動かしていた。それがベストだったと。

 しかし、どうして分け御霊同士が争わなくてはならなかったのか、その時の私にはまだ理解できなかった。

5.田中神社-悪縁切り

 御本殿の南側にある三笠山に続く石段を登ると伊弉冉(いざなみの)命(みこと)を祀る磐(いわ)堺(さか)「母儀人基社(ははぎのひともとしゃ)」がある。磐堺は、2本のご神木の間に苔むした岩々が鎮まり、八角形の土台で囲ってあった。八角形は天皇を象徴する神聖な形である。赤松の巨木だろうか、何本も美しい赤膚の幹が立ち並び、太陽の強い日差しが梢から漏れ射している。静寂の中に鎮まる神の息吹を感じる。

伊弉冉(いざなみの)命(みこと)を祀る磐(いわ)堺(さか)「母儀人基社(ははぎのひともとしゃ)」

伊弉冉命( いざなみの みこと)を祀る磐堺( いわ さか)「母儀人基社(ははぎのひともとしゃ)」

 佐太神社は、広い境内全体が静寂に包まれている祈りの世界だった。

 参道を戻り、鳥居を抜けてしばらく歩くと佐陀川に面して田中神社がある。小さなお社が背を向けて建っている。それぞれに参拝した後、私が最初に中央の隙間に立って割符を割った。西社の縁結びの札は、お札掛けに掛けた。東社の悪縁切りの札は、箱の中に奉納した。

西社の木花開耶姫(このはなさくやひめの)命(みこと) 縁結び・安産の神 東社の盤(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと) 悪縁切り・長寿の神

西社の木花開耶姫命( このはなさくやひめの みこと) 縁結び・安産の神 東社の盤長姫命( いわ なが ひめの みこと) 悪縁切り・長寿の神

田中神社 お参りが引きも切らない。

田中神社 お参りが引きも切らない。

 その直後だった。次女から携帯に電話がかかってきた。

「お父さん、ゆんちゅると話し合ったほうが良いのじゃない。」

「どうしたの。」

「ゆんちゅるが、また銀行から借金するんだって。この間、200万借りたばかりなのに。おかしいと思わない。友達と会社を経営してるからって、借金するのがゆんちゅるだけなんて、絶対変だよ。いい加減、その会社辞めたほうが良いんじゃないの。」

 次女は、妹夫婦の会社のことを心配して、かなり興奮していた。

「妹はどう思っているの。」

「それがさぁ、旦那のことを気遣って、何にも言えないのよ。強く言ったら、ゆんちゅるがへこんじゃうって、話もろくしていないみたい。」

「奥さんが言えないことを、お父さんも言えないじゃない。夫婦でまずよく話し合うように言ってみたら。」

 次女は、何とか借金するのを止められないか、友人たちに騙されているのではないか、心配が次々と浮かび上がってきて興奮が冷めなかった。

「ちょうど良かった。今、悪縁切りの神社をお参りしているんだ。悪縁が切れるように、お願いしておくよ。」

 私は、東社の表札を写真に撮って、ラインで送った。

『御祭神 盤長姫命 田中神社 御利益 縁切』

 あまりのタイミングの良さに、私自身びっくりした。だが、本当はゆんちゅる、つまり三女の夫の問題ではないのだ。次女の心の中の不安が浮上してきているのが分かった。自分の不安をフィルムにして、現実世界に投影しているだけだった。現実世界の現象は、自分の不安から創りだされているのだ。それに気づくことが、統合の最初の一歩だった。

さあ、このことをどうやって娘に伝えたらよいのだろうか。

 私は、盤長姫にお祈りした。

 私が電話のため境内の外に出ている間、妻とミホリーナ夫妻は割符の奉納で盛り上がっていた。美しい女神が描かれた札の裏側には、「良縁結祈願」「悪縁切祈願」と書かれている。そこに自分の名前を記入し、二つの社の真ん中でパキッと札を割るのだ。一人ひとり、順番に心の中に祈願を思い浮かべながら、社の真ん中に立って、パキッと割った。

 翌朝、しばし瞑想した後、玉造神社の旅館から、次女にラインを送った。

「ゆんちゅる、心配だね。

 だけど、失敗することも、人生の大事な選択だから、

ゆんちゅるとノンちゃんで、相談して行ったら良いよね。

 人生の目的って、この世で経済的に成功すること以上に、

大きな気づきを得ることなんだよね。

 追い詰められていくのは、気づきを得るための、

神様の罠なんだ。

 そこで、わー苦しいってもがいて、

これじゃダメだぁってところまで行かないと、反転しない訳。

 だから、中途半端に引き戻されちゃうと、

また同じことを繰り返す訳。

 側(そば)で見ていると、また同じじゃんと思うけど、

本人がとことん追い詰められて、もう嫌だあーってならないと、

反転しない。

 だから、人間、いつまでも戦争する訳。」

 必要なことが表現できたという手ごたえがあった。

 1時間後、次女から返信が届いた。

「お父さん!!

 凄い腑に落ちる!

 めっちゃ気付かされる。

 いつも私そうなんの!

 ただのお節介ババぁなのんだよね!

 自分の価値観押し付けて

 相手の学びを奪おうとしてた。

 旦那も近いものを感じる。

 旦那の職場環境理解できなくて

 旦那の身体が心配になるから

 私の価値観を押し付けてた。

 周りの思考回路変えて自分たちが働きやすい

 より良い環境に変えたら?って色々話すけど

 旦那や旦那の周りの人間が本当に改善して欲しいと思ったら

 すでに革命起こしているよね。

 外部が心配することではないんだね。

 鬱で休職している人もいるし

 30代で朝起きたら死んでたり

 過労死との因果関係は定かではないけど、

 そんな事が周りで起きてたら、

 会社に直談判して現状を伝えて変革を求めるか、転職するか

 だけど、ずーーーーっと何も状況変わらない。

 それぞれの価値観で生きてるから

 他人がどうこう口を出すことではないんだょね。

 ・・・・・

 良く分かったわ。。。」

 私は、驚いた。こんな短い文章で、伝えたいことが伝わっていた。盤長姫に感謝した。神の働きに感謝した。私は、急いで返信した。

「すごいね~

 素晴らしい気付きだよ!!

 ありがとう。

 そうしたら、次に考えることは、

 どうしたら、その人の力になれるかだよね。

 愛を送ってあげれば良いんだよね。

 愛は、宇宙に遍満するエネルギーだから、

 時空を超えて必ず相手に伝わる訳。

 心からの愛情を送ってあげて、

 最高に素晴らしいその人を認めて、

 見つけて、

 信頼して、

 力は初めからその人に備わっているのだと信じて、

 リスペクトして、

 尊敬して、

 目線を対等にして、

 愛を送ってあげれば良いんだよね!

 ブラボー。」

 娘からスタンプの返信が来た。

「祈ってます!」

6.監獄惑星-『エイリアン・インタビュー』

 私は、人類が生まれ変わり、死に変わりしながら、いつまでも無知と無明の中に留まっているのが、疑問で仕方がなかった。人は生まれる瞬間にすべてを忘れると言うが、死んだ後も何の真実も知らないように見えた。何十回、何百回生まれ変わっても、幽界と現世を行きつ戻りつしているだけ、としか思えなかった。

 そのからくりを初めて教えてくれたのが、『エイリアン・インタビュー』だった。

 1947年7月8日アメリカのロズウェルにUFOが墜落した。一時は米軍が空飛ぶ円盤の墜落と報道したがすぐに否定され、調査の結果気象観測用の気球を誤認したものだとされた。だが、多くの目撃者と記録写真によって本当にUFOが墜落したのだと信じる人々も多い。現在のロズウェルは、UFO墜落現場として有名な観光地に発展している。

 ところが、2008年墜落現場に駆け付けた陸軍看護師マチルダ・オードネル・マックエルロイの手記が公表された。公表されたとき、彼女は既にこの世の人ではなかった。ジャーナリストであるローレンス・スペンサーのもとに余命短い彼女から記録が郵送されてきたのだ。彼女の記録は事件の詳細を極めていた。

 彼女は防諜機関の士官であるミスター・カビットと共に現場に駆け付け、宇宙船の残骸と死亡した複数のエイリアン、そして生存していたエイリアンを発見した。マチルダだけがエイリアンのテレパシー的思考を感知することができた。陸軍基地に運ばれたエイリアンと通信することができたのは、結局マチルダだけだった。彼女は、6週間にわたりインタビューを行い、膨大な情報を入手することに成功した。エイリアンの死後、マチルダは機密保持誓約書にサインして、名誉除隊した。しかし、奇妙なことに彼女の手元には膨大な記録のコピーが一部残されていた。そのことは誰も知らず、マチルダは生涯誰にも話さなかった。

 事件から60年後、83歳になったマチルダは安楽死を選択した。その直前にすべての資料をスペンサーに送ったのだった。『エイリアン・インタビュー』は、2015年初版が発行され、2019年私は初めて読んだ。その衝撃は計り知れないものだった。

 エアルという名の生存していたエイリアンの話を要約しよう。

 宇宙船は雷の衝撃によって墜落した。エアルは、ドメインというスペース・オペラ文明の遠征軍の士官・パイロット・エンジニアだった。彼女はドールボディという精密なロボットの身体を自由に操ることができ、身体が破損した時は瞬時に母船に戻ることができた。ドメインは全宇宙の四分の1を占めるほどの巨大な文明であり、彼らは何兆年も続く文明であった。

 天の川銀河は宇宙の辺境にあり、地球はさらに辺境の地にあった。ドメインが初めて地球を訪れたのは、約1万年前だった。約8200年前、ヒマラヤ山脈の山の内側に一個大隊の基地を建設した。その直後、「旧帝国」軍の攻撃を受け3000人の隊員が捕虜となった。ドメインはその時初めて北斗七星に中央政府を持つ「旧帝国」の存在を知った。

 隊員全員記憶喪失にされ、偽りの催眠暗示を与えられて地球人の体の中に閉じ込められた。地球には、IS-BE(魂)を閉じ込める「電子バリア」が仕掛けられていた。IS-BEが肉体を抜け出ると、「電子バリア」が感知し途方もない電気ショック療法を使ってすべての記憶が消去された。それは一つの転生だけでなく、無限の過去からの記憶のすべてとIS-BEのアイデンティティーのすべてを消去する。電気ショック後に偽の記憶と偽の時間が催眠暗示され、思い出すことすら忘れるように指示されていた。

 地球は「旧帝国」が牢獄惑星として途方もない長い時間使われていたのだ。そこには、「旧帝国」の政治犯、反逆者、芸術家、音楽家、作家、脱税者などが送り込まれていた。牢獄惑星の目的は、無知、迷信と残虐な戦争により、IS-BEたちを電子バリアに捕縛されたままにすることである。

 ドメインは、「旧帝国」軍の宇宙船と太陽系の宇宙空間で長い間交戦した。西暦1235年、ドメインはついに「旧帝国」軍を壊滅させた。だが、「電子バリア」システムを解除することができなかった。そのため、3000人の捕虜は未だに地球人として無意味な転生を繰り返している。

 「旧帝国」軍の宇宙艦隊は壊滅したが、長い歴史を持つ思考コントロール・オペレーションの大部分は残されており、国際銀行家たちに見えない影響力を与えている。彼らは武器と戦争を奨励し、無意味な戦争による大量虐殺を引き起こしている。それは、地球のIS-BEたちが覚醒してしまうのを妨害するためである。「旧帝国」軍の宇宙艦隊は壊滅したが、彼らの秘密基地は未だ存在し、活動している。

 この情報は、私の知りたかったことを見事に解明してくれた。有史以来果てしなく続いている人類の戦争。第二次世界大戦以降の世界を見ても、人々は故意に戦争しているとしか思えなかった。単に物欲のために戦争すると言う以上に、もはや操られて戦争しているとしか見えない。それは、牢獄惑星に永遠に魂を留めておくためのコントロールシステムだった。

 ドメインは、捕虜となった3000人の居場所をすべて把握した。しかし、その魂(IS-BE)を「電子バリア」から解放することは未だできていない。エアルはまだ果てしない時間がかかるだろうと予測した。1947年当時、まだ宇宙的な覚醒の波は始まっていなかった。

 エアルは、人類に対する闇の勢力の実像を表現していた。しかし、人類を進化発展させようと願う光の存在達のことは、ほとんど触れていない。人類創生に関わったシリウスのニギハヤヒやニビルのアヌンナキのことはほとんど説明がなかった。天使についても、まったく記述がない。マチルダは、エアルたちは無神論者だと報告している。

 『エイリアン・インタビュー』は誰のために書かれたのだろうか。人類に深い英知を与えようとする意図が感じられる。実際マチルダも私も、驚愕の事実に何度も打ちのめされた。一方エアルは、直接的には米軍司令官たちや諜報機関幹部に向けて語っている。肉体を持った闇の支配者たちに、真実を知らせるためにこの本は書かれているのではないだろうか。

 並木先生は、大国主命と瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)は分け御霊だと言った。出雲族は滅ぼされ、大国主命は黄泉の国に身を隠した。瓊瓊杵尊の弥生族が日本の国を支配し、天皇制を通してニギハヤヒは神々の意図を具現化しようとした。実際には、弥生族の歴史は戦争に明け暮れていた。鎌倉時代、戦国時代、明治維新、第二次世界大戦と日本の歴史もまた戦争の歴史だった。それにもかかわらず、並木先生は「その方がベストだった。」と言っている。

その言葉の深い意味が、徐々に私の意識に浮き上がってきた。

7.美保神社-水木しげるの古代出雲

 佐太神社から島根半島の先端にある美保神社へと向かったが、その前に境港で美味しい海鮮丼をいただくことにした。山陰ののどかな田園風景と中海の真ん中を一直線に走る湖の道を通過して、CMの「ベタ踏み坂」で有名になった江島(えしま)大橋を渡ると、もう境港だ。

 お店一押しの海鮮丼は、新鮮な刺身やアワビ、松葉ガニ、ウニが丼にあふれるようにのっていた。日本海の魚は本当に新鮮だった。

境港の海鮮丼 一番人気だ。甘露醤油にワサビを混ぜていただく。

境港の海鮮丼 一番人気だ。甘露醤油にワサビを混ぜていただく。

 美保神社には、大国主命の長男である事代(ことしろ)主(ぬしの)神(かみ)が祭られている。事代主神は、鯛を手にした福徳円満の神、えびす様である。ここは、全国3385の「えびす社」の総本宮。また、大国主命のお后三穂津(みほつ)姫(ひめの)命(みこと)が祭られている。拝殿の奥の本殿は、右側に三穂津姫命の社殿、左側に事代主神の社殿と二つの大社造の社殿が並ぶ特殊な形式となっている。

美保神社鳥居 漁港前の神社と思えないほど森の緑に囲まれている。

美保神社鳥居 漁港前の神社と思えないほど森の緑に囲まれている。

神門 大きな注連縄の向こうに拝殿が見える。

神門 大きな注連縄の向こうに拝殿が見える。

美保神社拝殿 壁がなく梁がむき出し 音響効果が優れている。

美保神社拝殿 壁がなく梁がむき出し 音響効果が優れている。

 半島の先端にあり、鳥居の前には漁港が広がっているのに、社殿の背後は深い森になっていた。午後の日差しが拝殿や木々を美しく照らし出していた。

 ここは大国主命の国譲りの舞台でもある。アマテラスは使者を大国主命のもとに送り国譲りを迫った。ところが3回とも失敗してしまった。最後にアマテラスはタケミカヅチを送り、大国主命に国譲りを迫った。大国主命が脅かされて長男の意見を聞いてくれと頼んだ時、事代主神はのんびりと美保の岬で釣りをしていた。タケミカヅチに呼び出された事代主神は船で稲佐の小浜に向かった。事の一部始終を聞かされると、この国を差し上げますと言って海に飛び込み、乗ってきた船を傾けて中に隠れてしまった。それが、美保神社の祭り「青柴垣神事」となった。

 境港出身の水木しげるは、『古代出雲』を詳しく描写している。30年間古代出雲青年が夢に現れて、滅ぼされた出雲族のことを人々に知らしめてほしいとたびたび頼まれた。水木しげるは何度も何度も出雲地方を訪ね、神事に参加し、ついに長編『水木しげるの古代出雲』ができあがった。それは苦労して地上に葦原の中つ国を築いた出雲族がアマテラス率いる弥生族に滅ぼされた悲哀を鎮魂する物語だった。

 NHKで出雲族と弥生族のDNAを調べた番組があった。大陸から稲作と鉄器を持ってやってきた弥生人が縄文人(出雲族)に代わってこの国を支配するようになった。現代人にどの程度縄文人のDNAが残っているかを調べると、ごくわずかしか残っていなかった。現代人は、弥生人と縄文人の混血というよりも、ほとんど弥生人だった。縄文人が滅ぼされていった事実がDNAからも浮かび上がった。

 アマテラスに滅ぼされた出雲族の鎮魂が本当に必要だった。

 鎮魂とは何だろうか。平成27年4月、平成天皇がパラオに日本兵の鎮魂に出かけた。天皇は海に花輪を手向け深々と頭を垂れた。戦没兵士に深い哀悼の思いをささげた。そうだ。兵士たちは死後の世界でも戦闘を繰り返しているのだ。深く傷つき、恐怖と飢えに苛まれながら死後の世界を彷徨している。誰かが、もう戦争は終わったのだ、さあ光の国に帰りなさいと伝えるまで、彼らは地獄から抜け出ることができない。

 天皇が深々とこうべを垂れた海原の向こうに、どれだけ多くの御霊が集まってきていただろうか。最高司令官からの鎮魂の哀悼の意が注がれたとき、彼らは初めて戦争が終わったことを受け入れ、光の国へ上がっていった。

 水木しげるは、大国主命を鎮魂したのだろうか。それ以上に滅ぼされ、未だに苦悩する出雲族の民を鎮魂したのだ。そして、大国主命は自分と一緒に汗水を流して国造りをした民が鎮魂されることを心底願っていた。出雲地方にこれだけ多くの神社が祀られているのは、大国主命の深い深い鎮魂の思いを現していた。

 水木しげるの長い出雲巡礼の旅は終わった。滅ぼされた大国主命は、出雲に壮大な神殿を建てることを望んだ。アマテラスはアメノホヒとその子孫に出雲大社の宮司を命じた。アメノホヒの子孫は出雲国造として今も出雲族の鎮魂を続けている。天皇家と並んで日本最古の家系として連綿と神事を続けているのだ。

 水木しげるが長い長い出雲族の歴史を描き終わった時、古代出雲青年が再び枕元に現れて言った。

「水木よ、私の思いを分かってくれて、ありがとう。

 私はもう二度と、現れることはないだろう。」

 美保神社を拝礼し戻ってくると、鳥居の左手に小さな路地がある。青石畳通りだ。古い石畳の両側には旅館や醤油屋が立ち並び往時の面影を残している。狭い路地を左に進むと仏谷寺がある。浄土宗の古刹は今も人々の信仰が息づいている寺だった。

鳥居のすぐ横に青石畳通りがある。旅館や醤油屋が立ち並ぶ。

鳥居のすぐ横に青石畳通りがある。旅館や醤油屋が立ち並ぶ。

 美保神社を後にして、私たちは境港の水木しげるロードに向かった。延々と続く商店街の両側に妖怪たちのモニュメントが立ち並んでいる。たくさんの観光客が買い物や妖怪グッズ、妖怪饅頭を楽しんでいた。2015年93歳で亡くなった水木さんは、今も故郷の町を闊歩している。人々は可愛らしい妖怪たちを入口にして、やがてその奥にある精霊たちの真実の世界に気づくようになるだろう。見えない世界こそ、本当の世界であることに気づくようになるだろう。私自身、水木しげるを通してどれだけ多くのことを学んだことだろう。熱い感謝の思いがこみ上げてくる。

 その日は玉造温泉の長楽園に泊まった。日本一大きな混浴露天風呂に浸かると、旅の疲れが一気に癒される。かすかに硫黄の匂いが立ち上る透明な温泉だった。辺りは夕暮れ時の仄(ほの)かに青い大気に包まれ、一番星が輝きだしていた。

夕食も盛りだくさんの日本海の鮮魚と生ビールに囲まれて、おしゃべりが延々と続いた。パパさんがお父さんを看取った話は、鮮やかな情景が目に浮かぶほど克明だった。子供たちのこと、ジジババのこと、旅行のこと、話は尽きず、気が付くと食堂は閑散として来ていた。千鳥足で部屋にたどり着くと、心地よいベッドに身体が吸い込まれていった。

8.八重垣神社-スサノオノミコト

 9月20日朝6時にもう一度露天風呂に浸かった。静けさに包まれた広大な露天風呂の奥壁に龍の体が作られている。その龍の口から温泉が流れ出て細い滝を作っていた。その辺りの湯は熱くなっていて近寄れない。空は青く澄みわたり、今日も晴天だった。

 朝食をすますと、車で八重垣神社に向かった。広い駐車場がいくつもある大きな神社だった。お参りの人も多かった。鳥居の左手に手水舎があり、手と口を清める。山門(随神門)を潜ると太い注連縄を飾った拝殿が見えてくる。御祭神は、素戔嗚(すさのおの)尊(みこと)、稲田(いなだ)姫(ひめの)命(みこと)、大己(おおな)貴(むちの)命(みこと)(大国主命)である。

八重垣神社山門(随神門) 奥に拝殿が見える。

八重垣神社山門(随神門) 奥に拝殿が見える。

八重垣神社 「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」 素戔嗚尊の和合の喜びが 今も境内に満ち満ちている 縁結びの大神だ

八重垣神社 「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
素戔嗚尊の和合の喜びが 今も境内に満ち満ちている 縁結びの大神だ

 素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する舞台となった場所である。高天原で暴れ者であった素戔嗚尊はついに追放されてしまい、天界を去って地上に降り立った。出雲斐の川の畔を上って行くと老夫婦と稲田姫が泣いているのに出会った。訳を聞いた素戔嗚尊は、佐草の郷「佐久(さく)佐女(さめ)の森」に『八重垣』を作り、稲田姫を隠した。八岐大蛇を退治した素戔嗚尊は、老夫婦の許可を得て稲田姫をめとり、この地に宮作りしたのが、八重垣神社の始まりである。

「八雲たつ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を」

 妻をめとった喜びから、日本最古の歌が生まれた。

 参拝を済ますと、社務所で縁結び占い用紙を分けてもらった。和紙を鏡の池に浮かべると、占いの文字が浮いてくる。鏡の池は、小さな橋を渡りうっそうとした奥の院「佐久(さく)佐女(さめ)の森」の小道の奥にあった。左手にはご神木の夫婦杉が二本、囲いで守られて立っている。池の水は藻の緑を映し出して、まさに緑の鏡のようだった。池の奥に建つ小さな天(あめの)鏡(みかがみの)神社(やしろ)には、稲田姫命が祀られている。

 すでに数人の若者が池の畔で和紙の行方を見つめている。私も和紙を水面に浮かべ、100円硬貨を載せた。「金運に めぐまれる 縁 西と北 吉」の文字が浮かび上がった。

 (おおっ、ありがたいなあ。)と思ったが、この占いは続きがある。

和紙が15分以内に沈めば早く実現するが、それ以上かかると実現は遅い。和紙が遠くの方へ流れていくと、遠方の人との縁。近くで沈めば身近な縁を現す。私の紙は、左に向かってゆっくりと流れてしばらく浮かんでいた。やがて、中心の硬貨が沈み始めると、包み込むように静かに池の底に沈んでいった。

ミホリーナの和紙には、「信念をもて 願い かなう 西と南 吉」と浮かんだ。和紙はどこにも流されず足元で長く浮かんでいた。パパさんも、隣に並んで和紙を浮かべた。すると、瞬く間に池に吸い込まれていった。

妻も和紙を浮かべると、私と同じように左に流されて、しばらく浮いていたが、私と同じ場所に沈んだ。

 「佐久佐女の森」の奥に鏡の池がある。和紙の上に硬貨を置き、水面に浮かべて占う。

「佐久佐女の森」の奥に鏡の池がある。和紙の上に硬貨を置き、水面に浮かべて占う。

2本の夫婦杉のご神木 手前に古い囲いが残っている。

2本の夫婦杉のご神木 手前に古い囲いが残っている。

 八重垣神社の参拝を終えると、熊野大社を訪ねた。ここは、素戔嗚尊、別名加夫呂伎(かぶろぎ)熊野(くまの)大神(おおかみ)櫛(くし)御気(みけ)野(ぬの)命(みこと)を祀っている。本殿右の稲田神社には妻の稲田姫命を祀り、左の伊邪那美神社には母の伊邪那(いざな)美(みの)命(みこと)が祀られている。

 広大な敷地に3つの鳥居があり、意(い)宇川(うがわ)にかかる神橋は赤い朱塗りの欄干が目に鮮やかだった。随神門を潜ると広い境内に出る。拝殿に飾られた注連縄はさらに大きい。抜けるような青空から太陽の日差しがさんさんと降り注ぎ、辺りは静寂な霊気に満ち満ちている。出雲は素戔嗚尊のエネルギーが遍満していた。

意宇川に架かる朱塗りの神橋と鳥居 奥に随神門が見える

意宇川に架かる朱塗りの神橋と鳥居 奥に随神門が見える

素戔嗚尊の別名熊野(くまの)大神(おおかみ)櫛(くし)御気(みけ)野(ぬの)命(みこと)は、水と農業を司る神として熱い信仰を集めていた。

素戔嗚尊の別名熊野大神櫛御気野命( くまの おおかみ くし みけ ぬの みこと)は、水と農業を司る神として熱い信仰を集めていた。

苔むした岩間から流れ出る御神水 絶えることなく流れ出す美しい水だ

苔むした岩間から流れ出る御神水 絶えることなく流れ出す美しい水だ

鑚(さん)火(か)殿(でん) 10月15日に行われる鑽(さん)火(か)祭(さい)で、ここに祀られている火鑽(ひきり)臼(うす)と火鑚(ひきり)杵(ぎね)を出雲大社に貸し出す。出雲大社の古伝(こでん)新嘗祭(しんじょうさい)(11月23日)に用いる火をつくりだす。

鑚火殿( さん かでん) 10月15日に行われる鑽火祭( さん か さい)で、ここに祀られている火鑽臼( ひきり うす)と火鑚杵( ひきり ぎね)を出雲大社に貸し出す。出雲大社の古伝新嘗祭( こでん しんじょうさい)(11月23日)に用いる火をつくりだす。

9.須賀神社-国譲りの隠された意味

 熊野大社から20分ほどで須賀神社に着いた。こじんまりした駐車場に車を止めて、少し歩くと須賀神社の鳥居の前に着く。右側に『日本初之宮 和歌発祥之遺跡』と刻まれた石碑がある。石段を上がると山門に太い注連縄が飾られている。さらに石段を登ると社務所の奥に拝殿があった。御祭神は、素戔嗚尊と櫛稲田姫命。両側に2本の杉が、本殿を守るように聳え立っている。素戔嗚尊が、稲田姫命と宮を構えた場所である。青々とした抜けるような空、強い日差しが清々しさを強調していた。

 ここから2㎞先の奥の宮に夫婦岩が祀られている。

 出雲は素戔嗚尊の息吹が満ち満ちていた。2000年の時を経ても、人々が素戔嗚尊を敬い、思慕してきた思いが、点在する一つ一つの神社に現されていた。

 素戔嗚尊には沢山の逸話が残されている。茅の輪潜りもその逸話の一つである。旅の宿を喜んで貸してくれた兄の蘇民将来に、疫病を逃れるために茅の輪を腰につけることを教えた。教えを守った蘇民将来は疫病を免れたという。

 素戔嗚尊から国を引き継いだ大国主命は、さらに国を豊かにしていった。こうして縄文時代は豊かな平和な時代が続いた。出雲の国は拡大を続け、東は越前、西は出雲・吉備まで広がる広大な領地に豊かな穀物が実る国となって行った。それを見た天照大神は、葦原の中つ国は弥生族が支配するべきだと考え、大国主命に国譲りを迫った。日本という国が大国主命の出雲族から天照大神の孫、瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)の弥生族へと転換していった。

 並木先生は、それがベストの選択だったと言っている。どうしてベストなのだろうか。

 私は、出雲に出発する前に並木先生に質問してみたかった。ちょうどUNITYが、9月5日に開催された。私は勇んで参加した。テーマは、「風の時代のワークショップ-重要な秋分を迎えるにあたり、『今まで』に別れを告げて、『これから』を迎え入れる」だった。

 会場は満席だった。古い友人たち何人かと再会できた。

 主なテーマは、3か月後に迫った冬至を前にして、他の人への『干渉』を手放すことだった。他人の人生に干渉することは、眠りの時代の在り方であり、折角統合してきた自分の周波数を下げてしまう行為だった。自分を表現することは良い。だが、それが干渉になってしまうのが微妙な落とし穴だった。

 突然、ニギハヤヒと瀬織津姫の話題になった。

「随分久しぶりにニギハヤヒがやってきています。もちろん、今最も大切な存在です。」

 私は2年前のステラの疑問の続きを質問したかったので、ニギハヤヒが登場してくれたのが嬉しかった。ところが、話題はすぐ変わってしまった。

 そして、いよいよ質問の時間が来た。並木先生は、いつも突然質問を受け付けだす。その時タイミングよく手を上げると、当ててくれる可能性が高かった。

 「ハイ。」

 私は勢いよく手を上げた。先生が私の方を見た。

 「はい、そこの左端の人。」

 指さされたのは、私の後方の人だった。並木先生は、指さす前から誰がどんな質問をするか知っている。明らかに今日は私の日ではなかった。でも、どうしてニギハヤヒが話題に上がったのだろうか。徐々にその意味が分かってきた。

 その日のワークショップが終わるころには、私の心に解答が浮かび上がってきていた。テレパシーで答えを与える。そんな並木先生のやり方をだんだん経験するようになった。

 講演を聞きながら、最初に思い浮かんだのは明治維新だった。アメリカ海軍東インド艦隊長官ペリーが浦賀沖に突然現れ、幕府に開国を要求した。イギリス、フランス、スペイン、ロシアなどのヨーロッパの国々も次々に日本にやってきた。日本は植民地となる危機に立たされていた。既にインド、フィリピンは植民地となり、中国もアヘン戦争に敗れていた。

 だが、日本は植民地とするには強い武力を持っていた。武士の戦闘能力は欧米でも警戒されていた。しかも、日本は欧米から軍艦を購入し、大量の武器、弾薬を購入していた。欧米といえども、簡単に侵略できる国ではなかった。

 もし日本が植民地となってしまったら何が起きただろうか。天皇制は廃止され、出雲大社や伊勢神宮も破壊されただろう。日本文化そのものが消滅していたかもしれない。ネイティブアメリカンやマヤ族、インカ帝国のように、すべてを破壊尽くされ、略奪され、蹂躙されてしまっただろう。それを防いだのは、弥生族の戦闘能力だった。

 国譲りにより弥生族が日本を支配し、天皇制を確立した後も、日本の歴史は戦争の歴史だった。平安時代以後、鎌倉時代からずっと戦争が続いていた。唯一、江戸時代だけが260年間戦争のない時代だった。この戦争で鍛えた軍事力が、明治維新で日本を救った。

 もし、国譲りがなく、出雲族がそのまま日本を平和で豊かな国にまとめ続けていたら、明治維新は無事では済まなかっただろう。遥か昔から神々にはそれが見えていたのだ。

 しかし、植民地化を避けることはできたが、弥生族は戦争をし続けた。日露戦争、日清戦争、そして第二次世界大戦と、歴史はまたしても戦争を繰り返した。それは、弥生族の宿命かも知れない。

 2年前、並木先生が『それがベストだった。』と言った意味が分かる気がした。国譲りがなかったら、今の日本は存在できなかったのだ。ニギハヤヒの意向は、天皇を通じて弥生族にも浸透していくことができた。戦争好きな弥生族に、神々は大和の大調和の精神を教え続けてきた。それは、今というアセンションの時に、人々に真理を受け入れる十分な精神的基盤を作るためだった。

 ワークショップが終わるころには、必要な情報が降りてきた。「久しぶりにニギハヤヒがやってきています。」と並木先生が言った時、こういう形で情報を伝えるから受け取ってみてというサインだった。謎が解けるまで、あと一歩だった。

須賀神社 山門 日本初之宮 和歌発祥之遺跡

須賀神社 山門 日本初之宮 和歌発祥之遺跡

拝殿に大きな注連縄 両側に杉の大樹 石段右は素戔嗚尊の神詠の石碑

拝殿に大きな注連縄 両側に杉の大樹 石段右は素戔嗚尊の神詠の石碑

10.日御碕神社、天照大神と素戔嗚尊

 須賀神社を後にすると、いよいよ日御碕神社に向かった。山陰自動車道を利用して出雲神西あたりまで進んでから北上し、出雲大社のある稲佐の浜を左手に見て、一気に日御碕に向かった。1時間余りのドライブだった。

 午後2時に到着すると、まずは昼食にうに丼を食べることになった。車中で食堂を検索すると、日本海のうに丼を食べさせる店があった。相当な人気店だった。電話で確認すると4時までやっているという。食堂の前は行列ができていた。観光客は皆、うに丼が目当てだ。

 「ここまでです。うに丼はこれで終わりです。」

 元気なおばさんが案内に出てきた。私たちの3組前で、うに丼は終わってしまった。どうしようと、辺りを見回しても、それらしい食堂はなかった。

 「イクラ丼ならあるわよ。のどぐろの煮つけもあるわ。それでよかったらどうぞ。」

 私たちは、無事イクラ丼とのどぐろの煮つけにありつけた。小粒のイクラとアオサの相性が良かった。

 日御碕灯台の駐車場は車でいっぱいだった。シルバーウイークの連休に大勢の観光客が集まっていた。灯台を尻目に元来た道を戻り、日御碕神社を目指した。

 花崗岩の鳥居を潜ると目にも鮮やかな朱塗りの巨大な楼門が目に飛び込んでくる。神社は、下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」と上の宮「神の宮」の上下二社からなっている。楼門を抜けると右側の階段の上に「神の宮」が現れる。素戔嗚尊を祭っている朱塗りの拝殿である。

 楼門をまっすぐ進むと朱塗りの下の宮「日沉宮(ひしずみのみや)」が荘厳にそびえている。松林の中にたたずむ朱塗りの社は、巨大な存在感を感じさせる。天照大神が祭られている。

日御碕神社 目にも鮮やかな朱塗りの楼門

日御碕神社 目にも鮮やかな朱塗りの楼門

 天照大神と素戔嗚尊を同等に一緒に祭っている日御碕神社は、弥生族と出雲族の融和と統合を象徴している。3代将軍徳川家光の命により、現在の本殿が建てられた。

 「なんか誰もいないみたい。」

 ミホリーナが「神の宮」の前でつぶやいた。拝殿に立派な注連縄が飾られているに、何かスコーンと抜けたように何の手ごたえもなかった。拝殿の奥には、一段高いところに本殿がある。本殿も静まり返って、主が不在だった。

 出雲に出発する前日、アキさんのリーディングを受けた。アキさんは、医療系の仕事をしているまだ若い女性である。ちょうど2年前にもアキさんのリーディングを受けたことがあり、出雲について聞いておきたかった。

 台風14号が伊豆諸島を通過しているころ、アキさんに会った。

「ちょうど夏至の日に出雲に行ってきたばかり。」

「どうでした。」

「がらんとして、誰もいなかった。」

 アキさんは会うなりそう切り出した。

「誰もいなかったって、どういう意味ですか。」

「日本国民が代替わりするときにあたって、神様たちも配置換えが起きているの。今生まれてきている子供たちが、新しい魂として日本で活躍を始める時期が来るのよ。大国主は、根付かせるエネルギーだから、新しい魂が代替わりするスペースをちょうど整えているところみたい。

大国主は、境がないからどんどんスペースを与えてくれる。アマテラスは求心力がすごい。大国主もアマテラスもコアとしては一つだけれども、地球に来たからには分れなければならない。そうして歴史を作ってきたのだけれども、今はアマテラスが意識を送る先が日本から別のところへ変わっている。大国主は、意識を地に向けてそこに根付かせるエネルギーなの。だから、新しい国づくりが始まる今は、準備の時なのね。」

「新しい国造りって、自然農法とか、自給自足の方向へ向かう人たちもいるけれども、最新の科学技術を使って自然を保護しながら農業を発展させる方法もありますよね。これからはどちらの方向に向かっていくのですか。」

「国っていうのは、視座が違うのよ。国って、個人のこと。個人が本当の自分に根付いて、自分の国を建てれば、そこで何をしてもよいの。大本は一つであって、好奇心、発展、成長なの。今は主軸がずれてしまって、神様とか、何か崇拝とかしているけど、神との関係性が変わって上下ではなくなるのよ。」

 アキさんとの対話はテンポが良くて心地よかった。出雲の神様たちは、これから起きる大転換に備えて着々と準備をしているようだった。

 日御碕神社を参拝した後、島根県立古代出雲博物館に向かった。元来た海岸沿いの曲がりくねった道を走ると、右手に日本海が見え隠れする。稲佐の浜まで戻って左折し、出雲大社の前の勢溜(せいだまり)の鳥居を横目にみると、もうすぐ博物館である。大きな駐車場の奥にモダンな建物が建っていた。

 中央ロビーには、中世出雲大社御本殿の心御柱と宇豆柱が安置されている。共に3本の巨木を束ねて巨大神殿を支えていたものだった。十分の1レプリカもかなりの迫力がある。高さ48mの巨大神殿が、平安時代には建てられていたのだ。神話の世界が実在していたことを物語っている。

 荒神(こうじん)谷(だに)遺跡(いせき)で発掘された銅剣、銅鐸、銅矛も展示されている。金色に輝く往時の色彩は見る者を魅了する。青銅とはこれほど美しい輝きだったのかと驚かされる。

 明日はいよいよ出雲大社をお参りするのだ。

 古代出雲博物館を出ると、夕暮れの稲佐の浜に向かった。浜の中央に忽然とそびえたつ弁天島は異様だった。まるで神様の忘れ物のように、平坦な浜辺に突き出ている。海の水は美しく透き通っている。夕陽が徐々に日本海に沈んでいった。空がゆっくりと黄金色(こがねいろ)に染まりだし、穏やかな海面に太陽の光が一直線に反射して浜辺全体が輝きだした。やがてさらに太陽が水平線に近づくと、黄金色から茜色に鮮やかな色合いを変化させていく。

 私たちは、荘厳な夕陽に我を忘れて見入っていた。ミホリーナがハープを取り出して、奏でだした。右手に弁天島、渚に白いローブをまとった天女、海は夕陽の茜色を反射して輝きを増していった。ハープの音色が優しく丸みを帯びて景色を包み込んでいる。

 一生に何度も見るチャンスのないほど美しい夕陽の渚だった。

稲佐の浜の夕陽 大社漁港の灯台に沈む

稲佐の浜の夕陽 大社漁港の灯台に沈む

 日没の後、私たちはそれぞれの宿に向かった。2日目は別々の宿だった。荷物を置いた後出雲市駅前の居酒屋で合流した。既にパパさんが席を予約してくれていた。日本海の魚は本当においしかった。辛口の地酒が五臓六腑に染み渡る。口が滑らかになり、夜の更けるまでお喋りが続いた。

11.出雲大社

 翌朝、もう一度稲佐の浜に出かけた。黄金の夕陽とは打って変わった青空が広がっている。ふと見ると出雲大社の北側の八雲山に龍神雲が現れていた。ぱっくりと口を大きく開けて細身の胴体を何度もくねらせたような雲がこちらを見つめていた。目も鼻もしっかりとある。

 3日間、本当に奇跡のような天気だった。

 弁天島の神社に参拝した。かつては弁財天が祀られていた。そうか、弁財天は音楽の神様でもあった。ミホリーナのハープをことのほか気に入ったのだろう。裸足になって海に入り、素鵞社(そがのやしろ)に奉納する砂を海岸で集めた。粒子の細かい肌触りの良い砂だった。

稲佐の浜の朝 龍神雲が八雲山から立ち昇っていた。

稲佐の浜の朝 龍神雲が八雲山から立ち昇っていた。

弁天島 以前は弁財天を祀っていたが、今は豊玉(とよたま)昆(ひ)古(この)命(みこと)が祀られている。

弁天島 以前は弁財天を祀っていたが、今は豊玉昆古(命( とよたま ひ この みこと)が祀られている。

 車を駐車場に置いたまま、出雲大社に向かった。神迎道をゆっくりと歩いていく。家々には、神様をお迎えするお花が玄関脇に飾ってある。信仰とともに生きている出雲の人々の心意気だった。

 しばらく歩くとついに勢溜(せいだまり)の大鳥居についた。想像以上に大きい鳥居だった。右手に神門通りの土産店が続いているが、そのはるか先にも大鳥居が見えた。宇迦橋の大鳥居だ。

 勢溜の大鳥居を潜ると松の参道はどんどん下っていく。右手に祓社(はらえのやしろ)がある。瀬織津比咩(せおりつひめの)神(かみ)、速開津比咩(はやあきつひめの)神(かみ)、伊吹(いぶき)戸主(どぬしの)神(かみ)、速佐須良比咩(はやさすらひめの)神(かみ)の四柱が「祓戸の神」と称され、ご祭神になっている。丁寧に参拝し、穢れを祓った。

 長い松の参道はどこまでも続いているように感じる。右手には広い芝生の空間が作られている。やがて松の参道の両側に大国主の像が現れる。右側は幸(さき)霊(みたま)奇(くし)霊(みたま)を模した黄金の球体を神からいただている大国主命の姿である。左側は因幡の白兎の物語だった。私たちも、幸(さき)霊(みたま)奇(くし)霊(みたま)を授けていただいた。

 遂に拝殿前の銅の鳥居に着いた。空にはおぼろ雲がかかり、巨大な白色の太陽がさんさんと光を放っていた。ダイアモンドの光の粒子が辺りに降り注いでいる。

銅の鳥居前の松林に、さんさんと光を注ぐ巨大な白い太陽

銅の鳥居前の松林に、さんさんと光を注ぐ巨大な白い太陽

 拝殿に立つと、社も大きいが注連縄も大きい。かつて平安時代には、ここに高さ48mの巨大神殿が建っていたのだ。境内の建物は、何もかもが大きかった。清々しい風がそよいでいる。大きな建物は決して威圧的ではなかった。むしろ女性的な丸みを帯びているように感じられた。今まさに、歴史の大転換がこの場所から始まる伊吹に満ち満ちていた。

 拝殿の奥に回ると本殿を取り囲む瑞垣がある。本殿正面の八足門の前には、あの心御柱と宇豆柱があった場所に赤い三つの円が描かれている。その巨大さが際立つ。

 大国主命の国譲りの約束を守って、天照大神の子の天(あまの)穂(ほ)日(ひの)命(みこと)が出雲で祭祀を始めた。その子孫が今日もなお出雲国造として連綿と祭祀を継続している。それは気の遠くなるような文化の継承でもあった。天皇家と出雲国造家は、神代の時代から絶えることなく今日まで継承されている。

 瑞垣を回って東の十九社から参拝した。やがて本殿の北側に着くと素鵞社(そがのやしろ)がある。素戔嗚尊を祭る社である。ちょうど南中した日差しは素鵞社を際立たせていた。まるで光の中に木の社が浮かび上がっているようだった。

光り輝く素鵞社。素戔嗚尊のエネルギーが最大になった。

光り輝く素鵞社。素戔嗚尊のエネルギーが最大になった。

 稲佐の浜から持ってきた砂を奉納した。社の周りにはたくさんの砂の箱があり、そこに持ってきた砂を奉納し、自宅用の砂を分けていただいた。素鵞社の背面に回ると苔むした巨石が社を守っていた。磐座だ。

 この磐座の奥が八雲山である。古来人が入ることを禁じられた領域である。

素鵞社の磐座 苔むした緑の磐からすさまじいエネルギーが立ち上っている

素鵞社の磐座 苔むした緑の磐からすさまじいエネルギーが立ち上っている

 瑞垣に戻り北側から本殿を参拝した。頭上に煌々と太陽が光り輝いている。参拝する者の頭(こうべ)を太陽の息吹が撫でていく。

 すべての社を参拝すると神楽殿に出る。この建物も巨大だった。注連縄はさらに大きくなり、5.2トンもの重量になるという。古代の人々はどうやってこの巨大な注連縄を吊るしたのだろうか。すべてが想像を絶する。

 ミホリーナは神楽殿の前でハープを演奏したかった。ちょうど神楽殿の西側に鏡の池があり、ベンチもあった。参拝者も途切れかかっていたので、私たちはミホリーナを促した。彼女は何か気になるのか、庭にいた宮司さんに話しかけた。すると、演奏の奉納にはあらかじめ届が必要とのことだった。

境内での演奏をあきらめかかったが、ミホリーナは社務所に寄ってみることにした。すると、神社は歌や踊りをするところではありませんと、けんもほろろの対応だった。職員は昼食前で疲れていたのかも知れない。

12.ニギハヤヒの復活

 出雲大社の主祭神は、大国主命である。しかし、今出雲大社を参拝してみると素戔嗚尊の強い息吹が満ち満ちていた。強固な決意のような力強さが感じられた。さらに素戔嗚尊の背後にある存在は、ニギハヤヒであった。

 2年前の『ステラ』で並木先生は、ニギハヤヒの正式名称を教えてくれた。「アマテルクニテルヒコアマノヒアカリノクシミタマニギハヤヒノミコト」すなわち、天照大神の本当の名前だった。弥生族が支配し、精神性が失われ、物質主義に陥っていった中で、本来のニギハヤヒの名前から女性のアマテラスに改ざんされてしまい、瀬織津姫も歴史の舞台から消されてしまったという。

 今出雲族の復活の時を迎えたのは、同時にニギハヤヒと瀬織津姫の復活の時でもあった。私の最後の疑問が解けていった。本来同じ分け御霊である大国主命と天照大神が互いに争い、弥生族が日本を支配した。だがその弥生族の中心には天皇が存在し、ニギハヤヒの意思を民族に伝える役割を果たしていた。複雑な二重構造を維持しながら、長い歴史を刻んできた。それがベストだったという。

 なぜ分け御霊なのに二つに分かれて争い、精神性の低いものが支配する構図が必要だったのか。

 その最後の疑問に答えを与えてくれたのは、またしても『エイリアン・インタビュー』だった。

 バシャールは、宇宙には「5つの法則」しかないと言う。ナオキマンとの対談の中で端的に表現していた。

  • あなたが存在している。
  • すべてのものは今、ここにある。
  • ひとつのものはすべてであり、すべてのものはひとつである。
  • あたえたものを受け取る。
  • これらの法則以外のものは、すべてが変化する。

 この「5つの法則」の中に宇宙の秘密が隠されている。

 墜落した宇宙船のエアルが語った物語は、私がバシャールやドランバロ・メルキゼデク、ゼカリア・シッチンなどから得ていた情報と食い違う点がいくつかあった。エアルには、光と闇という概念がなかった。ドメインは、全物質宇宙の四分の一を「支配している」と言うが、効率的に資源を保護する概念はあるが、存在を愛するという感情は感じられなかった。

ドメインは、数百年にわたって、この太陽系で『旧帝国』軍宇宙艦隊と闘い、壊滅させたと言う。「与えたものを受け取る」宇宙の法則から見れば、ドメインは非常に長い歴史を持つ文明であるが、物質次元に近い文明だった。

エアルは、巧妙に隠された『旧帝国』の秘密基地を「偶然」見つけている。つまり、ドメインは、『旧帝国』と全く同じ次元に存在している文明だった。一つ上の次元に上がると、下の次元は手に取るように見ることができる。ドメインには、その能力がなかった。

 一方、上の次元の存在は下の次元の存在に直接介入することはない。もし、直接介入すれば、同じ次元に転落してしまう。それが、ニギハヤヒが「闇の勢力」と直接戦わない理由だった。

 今、次元上昇を迎えている私たちの立場も同じだ。3次元世界に没頭する人と直接争っていれば、それは3次元で生きることを選択したのと同じだ。高次の存在は、直接介入しない。ヒントを与え、サポートを与えてくれるが、選択はその人に任されている。

 ニギハヤヒには、「闇の勢力」の介入が見えていたはずである。「闇の勢力」の介入を一切阻止することなく、人類を次元上昇させることが彼らのミッションだったのではないか。私には、それは、途方もなく困難なことのように思われた。

しかも、このミッションにはタイムリミットがあるのだ。地軸のずれによって生じる歳差運動によって、地球上のすべての存在は、目覚めから眠り、眠りから目覚めへと1万3000年ごとに周期している。その周期が、ちょうど今訪れようとしている。このチャンスを逃せば、2万6000年待たなければ、次のチャンスはやってこない。

人類は、過去4回アセンションに失敗してきたと言われている。今回が5回目だ。それほど難しいということだ。人類にとっても難しいが、ニギハヤヒにとっても難しいことだった。今この時代が、宇宙にかつてなかった稀有な時代だという意味が、おぼろげながらに分かってきた。宇宙人たちや天使たちが小躍りして喜んでいる。ついに人類がアセンションする日がやってきたのだ。それほど困難なミッションが成功しようとしているのだ。彼らが人類を「勇気ある存在」と称える意味も分かる。人類は自力でアセンションを選択しなくてはならないからだ。その選択は、全く個人個人の課題である。だからこそ、彼らは固唾をのんで見守っているのだ。

イエスや仏陀、空海は偶然生まれてきたのではない。実にたくさんの計画や準備の結果、彼らは地上に誕生してきた。それでも予定通り計画を達成できるかは分からない。おそらく大勢の達成できなかった存在たちが歴史に埋もれているはずである。こうして、無数の高次の存在たちが地上に降り立ち、人類意識を覚醒へと導いてきた。実に気の遠くなるほどの膨大なミッションの積み重ねによって、今の時代が形成されている。

一方、闇の存在たちも全力で悪をなしてきた。残忍さ、執拗さは半端ではなかっただろう。しかし、悪も極めれば反転する。爆発する良心の呵責によって反転する。山田征は、反転したルシファーの真実を描いている。創造の初めから闇を司ってきたルシファーが反転して、ルシエルとなった。すべての闇が自浄し自滅していく。こうしてついに、監獄惑星であった地上に光が差し始めた。

並木先生によれば、全宇宙の中央評議会によって、幽界トラップシステムが解除され始めた。現在では、幽界トラップはなくなり、人は亡くなった時幽界ではなく、直接アストラル界に上がっていけるようになった。この幽界トラップこそ、エアルが言っていた「電子バリア」に他ならなかった。いつも驚嘆するのだが、並木先生がさらりと言ってのける話が、マニアックな情報とほとんど矛盾することがなかった。

この非人道的な幽界トラップがなければ、人類ははるかに早く成長できたはずである。ところが、幽界トラップのために、毎回毎回転生するたびに「電子バリア」によって強烈な電気ショックを施され、すべての記憶を消去されてしまうのだ。それだけではなく、偽の記憶と偽の時間をインプットされている。こんな状況で魂の真実にどうしてたどり着くことができるだろうか。

 1万3000年続いた人類の暗闇がついに解き放たれる時が来た。2021年12月22日冬至、人類のDNAに埋め込まれた覚醒のタイマーが始動する。日本の出雲の地から、ニギハヤヒの力強い覚醒のエネルギーが放射され始める。それはまるで天岩戸が開いたように、瞬く間に全世界に展開するだろう。フェスティバルの始まりである。

 朝、稲佐の浜で見た龍神雲は、偶然ではなかった。八雲山から立ち上がる龍体も意味があった。出雲大社の裏側に着いたとき、太陽は南中し、素鵞社はキラキラと光に包まれて輝いていた。素鵞社の裏に回ると磐座が緑の光を放っていた。この磐座の奥に八雲山が佇んでいるのだ。この八雲山こそ、古代から神秘のご神体として篤く信仰され、守られてきたニギハヤヒの聖域であった。

 謎を抱えて出雲にやってきた私は、深い核心に到達することができた。本当に人類意識の覚醒が始まるのだ。

13.命(いのちの)主社(ぬししゃ)、樹齢1000年のムクノキ

 出雲大社の境内を出て銅の鳥居に沿って東に延びる道、社家(しゃけ)通り(どおり)がある。北島国造館、命(いのちの)主社(ぬししゃ)、眞名井の清水へと続いている。

 命主社には、天地創造の造化三神の一柱、神皇産(かみむすび)霊神(のかみ)が祀られている。古代の磐座が神社に発展したものである。案内板に連れられて狭い路地を少し入ると、巨大なクスノキに目を奪われる。樹齢1000年と言われる巨木だ。その存在感に圧倒される。数々の苦難を乗り越え、人々の信仰と共に育ってきたご神木だ。その峻厳さに思わず背筋がピンと伸びてくる。

  樹齢1000年の老木でありながら、瑞々しい生命力を宿している命主社のムクノキ

樹齢1000年の老木でありながら、瑞々しい生命力を宿している命主社のムクノキ

 小道をさらに東へと進むと民家の間に眞名井の清水が湧きだしている。この水は島根名水100選にも選ばれている。出雲大社の新嘗祭に使われる水だ。岩の隙間からこんこんと湧き出る水は清冽で心地よい。持ってきたクリスタルを清水で浄化した。クリスタルは輝きを増し、光を反射するレインボーが増えた気がする。

 誰もいないこの場所は、ハープを演奏するのにふさわしいと思われた。私は、ミホリーナに演奏を勧めたが、ミホリーナは気が進まない様子だった。眞名井の清水の隣の民家に気兼ねしたのかも知れない。

 帰り道、北島国造館に寄ってお参りをした。初めて入る境内は勝手が分からないと思っていると、若い女性が車から降りてお参りに向かうところだった。女性の後をついていくと、拝殿があった。女性に続いて三礼四拍手一礼でお参りした。すると、女性はさらに奥の方へとわき目も降らずに進んでいった。私たちもそれにつられて歩いていくと、池があり中央に祠があった。その祠の奥には滝が流れていた。心字池と亀の尾の滝だった。祠は天神社といい少名毘古那(すくなびこなの)神(かみ)を祀っていた。病気治療や鳥獣や昆虫の禍を祓うまじないを定めた神であった。

 人気のない池と滝は神域だった。静かに参拝していると、滝の音が心にしみる。遅れてやってきたミホリーナが大工さんを連れて近づいてきた。

「大工さんに、ここでハープを弾いてくれって頼まれたの。」

 大工さんは、神社境内の木の管理を専門にしていた。

「どんな音色か、聴いてみたいな。」

「じゃ、ここで。」

「そんなところじゃなくて、祠の前で弾いたらいいよ。」

 初めは遠慮していたミホリーナだが、心字池に浮かぶ島の天神社の前に座って演奏することになった。今回はギャラリーもいる。正座をして天地を寿いだミホリーナは静かにハープを奏で始めた。滝の音を背景にしながらハープの音色は神域にこだました。最高の演奏だった。

北島国造館の心字池でミホリーナがハープを奉納した。

北島国造館の心字池でミホリーナがハープを奉納した。

 私たちは神門通り商店街を見物した後、出雲大社を後にした。車窓から青空に龍神雲が見え隠れした。ありがとうございました。3日間、最高の旅を与えられた。

 旅の終わりに、須佐神社を訪ねた。夕暮れが迫っており、社務所はすでに閉まっていた。素戔嗚尊が国造りをして最後にたどり着いた地である。須佐神社には塩井(しおのい)などの七不思議があり、境内に案内板がある。境内の裏には樹齢1300年という杉のご神木が静かにたたずんでいる。ここにも素戔嗚尊の息吹が満ちていた。

 出雲縁結び空港に着くと、飛行機を待つ間レストランで夕食を取った。まるで居酒屋のような賑わいの店で、ビールで乾杯し旅の緊張をほぐした。のどぐろの一夜干しが味わい深かった。

 2021年冬至に、再び出雲を訪ねよう。ニギハヤヒの光がここから始まる。必ず大きな変化が始まる。そんな予感に満ち満ちて、飛行機に乗り込んだ。

須佐神社の本殿は、1861年建築された。拝殿には、大きな注連縄、奥の社には鏡が祀られている。

須佐神社の本殿は、1861年建築された。拝殿には、大きな注連縄、奥の社には鏡が祀られている。

エピローグ

 大国主命の国譲りと弥生族の天皇制は、どのような関係なのだろうか。縄文時代の代表である出雲族は、天照大神の弥生族に滅ぼされ歴史の表舞台から消えた。その謎を解く出雲巡礼の旅は、予想以上の歓迎を受けて幕を閉じた。たくさんの疑問が、徐々に明らかにされていった。日本創生の神であるニギハヤヒの復活と人類意識の覚醒が、ここ出雲から始まろうとしていた。

 神社に祀られている神々と日本人の間に大きな絆があることが分かった。私自身、神社にお参りに行くことで大きなご利益をいただいたことがたくさんある。初めは何となく参拝していたが、いただくご利益の素晴らしさに感嘆するばかりだった。

 友人が10年も子供を授からなかったとき、一緒に出羽三山にお参りした。ほどなく友人から懐妊の連絡が入った。その時はただ驚いた。

 総務を頼まれたある団体が赤字転落になりそうになった時、役員を引き連れて箱根神社を参拝した。3月会計を閉めてみるとかつてないほどの黒字決算だった。そんなことがあるのかと唖然とした。後で箱根神社に妻とお礼参りに出かけた。

 その経験から、ことあるごとに神社を参拝するようになった。神々の力は常に働いていた。

 創造主が宇宙を創造した時、人間をサポートするために天使を創造した。天使など存在しないと思っている人もいるかも知れない。天使は、必ず人間が頼まなければ助けてくれない。天使には、謝礼金もいらなければ、手付金もいらない。ただ心の中で、頼むだけで良いのだ。天使たちは人間から頼まれることを心待ちにしている。

 神々も同じだ。人間が心からお願いしない限り、めったにあなたの生活に姿を現すことはない。しかし、神々との交流は本当に心楽しい出来事である。旅行に行ったあと、デズニーランドやユニバーサルスタジオを楽しく思い出すかもしれない。同じように、神社に参拝したあと、その記憶は不思議と長く残る。深い安らぎと懐かしい思い出となっていつまでも心に刻まれている。それは神々と魂の交流をしていた証拠である。

 やがて神々が真実の姿を現す時が、やってくる。それはもうそこまで来ている。その時、私たち自身が神々と同じ存在であることを、心底理解する時でもある。その日を楽しみに、次なる巡礼の準備をしよう。

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エゴとハイアーセルフ

投稿日:2021/08/05

1.集合意識

 人が集まってプロジェクトをするとき、そこに集合意識が生まれる。私は、集合意識は自分とは別のものだと思っていた。しかし、自分とは別のものなど存在しない。集合意識とはハイアーセルフのことだった。集合意識は、より広い視点でプロジェクトの全体をとらえている。それだけではない。あなたが思い描いていることに欠けたところがあると、集合意識が教えてくれる。プロジェクトの完成のためにはどうしても必要な部分だからだ。より大きな視点、それはビッガーピクチャーとも呼ばれる。ともにハイアーセルフの別の名前だ。

 では、あなたとは誰なのか。エゴのあなたに他ならない。ハイアーセルフに繋がるとは、集合意識に繋がることだ。集合意識は、人間だけで構成されているのだろうか。そうではない。あなたの周りの森羅万象すべてが集合意識の一部なのだ。

 集合意識は、プロジェクトをするときだけ現れるのだろうか。そうではない。あなたが独りぼっちだと思う瞬間にも、あなたは集合意識に包まれている。うつむいて地面を見る時も、涙を払って空を見上げる時も、集合意識から離れることはできない。何故ならそれがあなただからだ。

 平成19年、私は地区医師会の3回目の理事なった。会長から頼まれたのは訪問看護ステーションの再建だった。10数年前設立された訪問看護ステーションは、浮き沈みが激しかった。ある年は管理者と理事が対立してスタッフを連れて全員辞めてしまった。そして今また崩壊の危機に陥っていた。

 「来月常勤が2人辞める予定なのだけど、何とか頼むね。」

 「常勤ナースって、5人しかいないじゃないですか?」

 「そうだよ。3人になったら24時間体制は難しいね。」

 「最近、ナースは募集できているのですか?」

 「もう10年間、一人も入ってきていないよ。」

 看護師確保はどんな医療機関でも最大の問題だった。日本は慢性的な看護師不足である。

 私は前任理事に様子を聞いた。過去の担当理事たちにも話を聞いた。次第に状況が分かってきた。管理者とスタッフはことごとく対立していた。私なりの意見をまとめて、管理者と会うことにした。その日夕方管理者とクリニックで会う約束をした。

 朝出勤するとクリニックのパートナースが泣いていた。あれどうしたのだろうかと思っていると、昼休みに口論が始まった。看護主任と彼女だった。パートナースは、休ませてくださいと言って帰ってしまった。

事情は本当に些細なことだった。しかし、こんなことはかつてなかったことだ。よりによって管理者と打合せをする大事な日に、自分のクリニックでもめ事が起きたのだ。私は、自分が管理者に言おうと思っていたことを、全部白紙に戻した。今日は、彼女の話を全部聞こう。そう決心した。

管理者は時間通りやってきた。状況をよく把握していた。忍耐強い人だった。だが、解決策は思い浮かばなかった。

「常勤3人になったら、24時間体制はどうするのですか?」

「私が、月2週間夜勤当番をします。」

「それでも、5週ある月はどうするのですか?」

「非常勤で手伝ってくれる人でうめます。」

「新規募集は?」

「広告出せるとこは全部出しました。でも、パート欄にしか載らないのです。」

「常勤の募集でしょ?」

「契約職員は、パート扱いなのです。」

「正職員は何人いるの?」

「私だけです。」

「どうして?」

「最初からそういう決まりです。」

次第に本当の問題が浮き彫りになってきた。医師会がステーションを作るときにいつでも廃止できるように正職員を採用しなかったのだ。最初は厚労省のばらまき行政で人が集まったが、今は締め付けの方が厳しい。

管理者は1時間、思いのたけを打ち明けてくれた。私は笑顔で彼女を送り出した。私は泣きだしたクリニックのスタッフに感謝した。先入観で面接を始めていたら、結果は全然違っただろう。

問題の本質は、医師会の及び腰にあった。私は会長と理事会に働きかけ、契約職員を全員正職員に採用しなおした。就業規則を作り直し、働きやすい環境を整えた。だが、新規採用は難しかった。

管理者から次々と提案があった。

「理学療法士を採用したい。」

今でこそ訪問看護ステーションに複数の理学療法士が勤務しているが、当時はまれだった。早速面接を始めると、驚いたことに数名の応募があった。看護師の募集では誰も応募がないのに。理学療法士を指導できる講師も採用した。

「認定看護師の資格を取りたい。」また新しい提案だ。

当時認定看護師は、民間の医療機関の資格だった。しかも、6か月間の研修が必要だった。授業料は90万円。実習期間がありその間は勤務ができなくなる。

理事会に諮ると、結構反対意見が出た。資格だけ取って辞めたらどうするのか。という意見もあった。それでも何とか取りまとめた。毎年1名ずつ認定看護師の資格を取るようにした。

私は、毎月2ヶ所のステーションの申し送りに参加するようにした。スタッフの雰囲気は全く変わってしまった。些細なことまで何でも相談が来たが、十分な予算を確保しておいたので、解決は難しくなかった。

管理者が認定看護師の資格を取ると、応募が次々と来るようになった。今度は定員オーバーを考える番だった。適正規模を決め、スタッフの高齢化対策も検討し始めた。結局6年間担当したが、累積赤字5,000万円を返済し、毎年2,000万円の黒字が出るようになった。

私はあらゆる問題を理事会に諮った。すると思いがけない意見や手厳しい意見が出た。初めは、私の中で反発もあった。しかし、これは集合意識なのだ。どこかに私の見落としていることがあるに違いなかった。理事会で議論をすると、その欠けた部分が浮かび上がってくるのだ。私はそれをプランに取り入れ、実行する。するとあっさりと実現した。

経営が軌道に乗ってきたとき、私は部屋を間借りしている方のステーションのために、建物を購入する案を思いついた。現在のステーションは駅から遠く利便性が悪かった。ステーションの中に物件を購入できる余裕もできてきた。私はひそかに検討を始め、理事たちにはそんな可能性をほのめかした。すると、経理担当理事から猛烈な反対があった。大したものだと思った。まだにおいが漂っただけなのに。

理事を辞めてみて、購入しないで良かったことに気づいた。もし購入していたら、一生担当理事を降りられなかっただろう。

2.建て替え

 ハイアーセルフとして生きるとは、集合意識で生きることに他ならない。私たちはまだ3次元世界に生きている。そこには沢山の制約があり、制度がある。ハイアーセルフのインスピレーションを地上に降ろし、現実化するためにエゴの力が必要である。主役はハイアーセルフだ。その現実化をサポートするのがエゴの役割になる。

 平成4年義父から個人病院を引き継いだ。課題が山積していた。中でも昭和34年に建った古い建物をどうやって建て替えるかが最大の課題だった。自分が生きているうちにできるだろうか。壊すだけでも4,000万円かかるのだ。

 可能性はあった。目の前の早稲田通りは戦後復興道路に指定されている。拡幅ラインが建物の柱にかかっていた。拡幅が決まれば、建て替えが可能になる。しかし、それがいつ東京都で決定されるか、誰も知らなかった。5年後かも知れないが、30年後かも知れない。

 平成20年3月私は関係者に集まってもらって、建て替えを提案した。勿論自己資金はゼロだ。懇意の設計士と大手建設会社が参加した。賃貸ビルを建てて、1階に診療所を作る案だった。ところが9月にリーマンショックが起きて金利上昇が予想されるようになると、すべては白紙になった。

 平成23年にもう一度仕切り直しをした。同じメンバーが集まって、同じ計画を検討した。状況は一変していた。鋼材価格の沸騰、建設費用の上昇のため、同じ条件での建設だと、毎月100万の家賃を30年間支払うことになった。30年後は墓の下だ。

 平成24年ついに早稲田通りの拡幅が東京都から発表された。直ぐにでも交渉が始まるのかと思ったが、その後3年経っても何の連絡もなかった。

 平成26年12月突然中野区から電話がかかってきた。

 「お宅は緊急輸送道路に面しているので、耐震診断が必要です。補助金が来年3月で打ち切りになるのですが、まだ補助金の申請をしておられないようですね。」

 「いえ、うちは建て替えるので耐震診断は必要ありません。」

 「建て替える予定でも、補助金は出ます。4月以降には義務化されますから、その時は自費で耐震診断することになりますよ。」

 要するに急いで耐震診断をしなさいということだった。しぶしぶ耐震診断をした。昭和56年以前の建物では、耐震診断をパスすることはできない。耐震性がないことが明白となれば、補強が必要となる。だが、補強の費用は補助されない。

 平成27年4月診断結果が出た。好成績だったのは、意外だった。昭和34年当時のコンクリートは極めて強度が強いそうだ。東西方向の補強だけで良いとのことだった。勿論、結論は耐震性不十分。

結論が出れば、動かざるを得ない。早速、東京都第3建設局に電話した。担当者がすぐ来てくれた。

「緊急輸送道路の指定で耐震診断をしたのですが、耐震性なしの結論になりました。このまま放って置くこともできないのでご相談しました。」

私は、耐震性のないのは、あなたの性ですと言った感じで、結構無責任な発言をした。

「そうですね。本当は、お宅は5年から10年後に着手する予定でした。」

(やっぱり、そうだったか。第3建設局にいくら問い合わせをしても、未定ですの返事しか来ない訳だった。10年後では、自分は70歳になっている。)

「こういった工事では、1、2回延期になるのは普通です。」

「しかし、今から耐震補強するのも無駄のように思いますが。」

「そうですね。思い切って調査を始めましょう。」

担当者の決断は早かった。てきぱきと歯切れの良い女性の担当者だった。

山が動いた。それからはとんとん拍子に事が運んだ。敷地の測量。休業補償の算定。建て替え方法の決定。最後は第3者委員会が判定して、補償額が決まると言う。面白いことに、実際の建て替えは、補償根拠となった建て替え方法に縛られる必要は全くないとのことだった。

事の成り行きを見ながら、都の担当者はたぶん2年で転勤になるのだろうと感じられた。私たちも、それまでにすべてを終わらせたかった。過去の経験から、担当者が変わると振出しに戻ってしまうことすらあった。

3.相続税

 私にはしなければならないもう一つの課題があった。持ち株の放棄だ。医療法人法は、戦後のどさくさで株式会社と同じ制度が適応されていた。にもかかわらず、公共性の観点から配当は禁じられていた。つまり株を持っていても何の価値もないにもかかわらず、相続の時だけ莫大な相続税がかかってきた。相続税を巡って医療法人が解散になるケースが後を絶たなかった。

 さすがに法の不備に厚労省も気づいたのか、平成19年新医療法人法が制定された。持ち株制度の廃止だ。私たちのような古い医療法人も移行できる制度ができたのだ。早速調べてみると、なんと税務署が立ちはだかっていた。移行はよいが、その時は総資産の50%を納めるように。

 私は、鶴見の叔父が相続で散々苦労するのを見てきた。ついには最高裁判所まで争ったのだ。親族が争わなくて済む唯一の方法が、持ち株の放棄だった。私は、50%を納める覚悟をした。銀行と相談し専門家を紹介してもらった。山田&パートナーズの担当者がやってきた。全国規模の会計事務所だった。それでも、実績はわずか4件だった。

 義父が亡くなってから、8人が株を持っていた。義母も叔父も高齢だった。もしものことがあれば、株主の数はどんどん増えていく。誰か一人でも払い戻し請求をすれば、応じなければならない制度だった。

 「株主は8人ですか。多いですね。急ぎましょう。」

 有能な担当者だった。親戚を回って了解を取り付けた。皆、相続税には苦労していたので、よく理解してくれた。持ち株放棄の書類に実印を押してくれた。ありがたいと思った。準備は完了した。最後に関係者に集まってもらって、会合を開いた。

 担当者が持ち株放棄について、詳しい説明をした。放棄しない権利についても、説明した。

 すると突然一人が発言した。

 「私は、払い戻しして欲しいです。」

 「払い戻ししたら、半分は税金を納めるのですよ。」

 「それでも良いです。払い戻ししたいです。」

 私は唖然とした。誰かの助けを求めたかったが、下を向いたままだった。私が20年以上努力して築いたものが、目の前で音を立てて崩れていった。一人払い戻しをすれば、全員が希望するだろう。それほどまでに、金には魔力がある。私は自分を止めることができなかった。

 「分かりました。それでは私にも覚悟があります。」

 私は、啖呵を切った。

会議室はしんと静まり返ってしまった。針の落ちる音が分かるとは、このことだろう。

担当者が割って入った。

「今晩は説明だけということで、次回にもう一度話し合いましょう。」

会議は終わった。医療法人も終わったと私は思った。

 その晩、私は眠れなかった。鶴見の叔父のことを思った。叔父はどこでボタンを掛け違えてしまったのだろうか。どうして、最高裁判所まで争ってしまったのだろうか。ふと、気づいた。今、この瞬間が、ボタンの掛け違えの瞬間だった。無理に説得すれば、何とかなるかも知れない。その人が折れてくれるかもしれない。だが、それが墓穴の始まりだ。長く苦しい争いが見えた。振り上げたこぶしは誰も下ろすことができなくなる。

 医療法人は終わった。それでも争うよりは良いと思った。

 翌朝叔父に謝った。

 「この話はなかったことにしてください。」

 ほっとした様子で、叔父は何も言わずに頷いた。

 担当者にも電話をした。

 「新医療法人への移行は撤回します。なかったことにしてください。」

 「えっ。」

 担当者が絶句した。いろいろな提案をしてきたが、私は同じ事を繰り返した。電話を切ってから気づいた。まだ、担当者と契約書を交わしていなかった。

 そして、奇跡が起きた。

 妻の妹が動いてくれた。

 「もったいないわ。私に任せて。」

 彼女の顔は輝いていた。だが、私は完全に決心していた。

 「僕は、降りたからね。」そう言った。

 「あの人は事情を分かっていないだけよ。話せば分かるわ。」

 妻と義妹が会いに行った。みんな了解してくれたと言う。私には信じられなかった。書類にも実印を押してもらったと言う。それでも、私は動かなかった。

 ついに、全員が書類に判を押す日が来た。

 すべての書類がそろったのだ。

 会計事務所の担当者が税務署に提出する書類を作成した。税額は、6,500万円だった。私は惜しいとは思わなかった。後で知ったが、この税率は徐々に引き下げられ、現在ではゼロになっている。それでも後悔はしなかった。あの瞬間しかなかったのだ。

4.だから何なの

 平成27年4月建て替えに向けて検討が始まった。この後に続く2年余りは、私にとって奇跡の連続だった。大きな奇跡もあれば、小さな奇跡もあった。毎日ありえないことが当たり前に起こった。あまりの驚きで、眠れない日もあった。けれども、ほとんどの日々は平穏に過ぎていった。平常心是道の意味が分かった。期待しすぎてはいけない。期待を手放すのだ。喜び過ぎてはいけない。

『だから何なの』

3次元世界でどんなに素晴らしいことが起こっても、それに心を奪われてはいけない。『だから何なの』と言いなさいと、並木先生が教えてくれた。

その時天上界から高い周波数が降りている。平常心であって初めて受け取る器ができる。もし、過度に喜んでしまっていたら、それはエゴの喜びだ。エゴの低い周波数では受け取ることができない。どうなるだろうか。たいていは眠れなくなる。そして体調を崩す。順調に回っていた歯車が狂いだす。想定外のことが起きる。幸運が逃げていく。計画はばらばらになり、雲散霧消する。

スポーツを見ていると良くそういうことが起きている。3日目まで大躍進していたゴルファーが最終日に信じられないミスを繰り返し、自滅していく。ペナントレースで勝ち進み、マジック10くらいになった頃から連敗を続ける球団。みなエゴがぬか喜びした結果だ。

『だから何なの』それはあなたを平常心に引き戻す魔法の言葉だ。さあ、落ち着いて瞑想しよう。心が浮ついて飛び跳ねるのを鎮めるのだ。

建て替えが決まった。十分な建築費用が補償された。後は簡単なことだと思った。だが、実際は不可能の連続だった。第3者委員会が提案したのは、移転だった。これには、都の担当者も驚いた様子だった。最初に担当者が提案した建て替え費用の算定方法にはないプランだった。建て替えるためには、仮診療所を借りなければならない。その費用が予想以上に膨らむことが分かった結果、より費用の掛からない移転というプランが浮上したのだ。

私もそうだと思っていた。早速移転先を検討した。何件かよさそうな物件が見つかったので、妻と見に行った。物件はよい。場所も良い。ところがすぐそばに内科診療所があった。同じ内科診療所を建てるのでは、喧嘩を売っているようだ。移転先は、現在の診療所のすぐ近くではならない。今通院している高齢者でも通える範囲に求めたい。それは不可能だった。東京のど真ん中で、診療所のないエリアは存在しないことに気づいた。

現在地に建て替える。それしか選択肢はなかった。初めからそれしかないのだ。初めて気づいた。仮診療所。それが難題だった。最低60坪の面積が欲しかった。1年半の建て替え期間をそこで過ごす。決して短い期間ではない。手近で、そんな広い空間がすぐ見つかるなど考えられなかった。

そのため、以前大手建設会社が提案したアイデアがあった。コインパークを借り上げるのだ。そこにプレハブ2階建ての仮診療所を設置する。建て替えが済んだら、更地にして返却する。試算では、1年間借りただけで6,000万円だった。確かにコインパークなら、近くに何か所かあった。しかし、6,000万円は高すぎると感じていた。

ともかく賃貸物件を探してみよう。不動産会社に依頼した。すると、即座に物件が紹介された。まるで待っていたかのようだ。大きなビルの3階。ワンフロアの半分以上が空いていた。80坪。同じフロアに整形外科があった。院長は懇意にしているエレガントな女医さんだ。クリニックからわずか180mのところにその物件はあったのだ。しかも、オーナーはよく知っている人だった。知っているなんてものではない。彼の父親は地域では有名人だった。しかも、最期は私たちの病院で亡くなった。父親は義父とも仲が良く、自分で栽培しているという三ケ日ミカンを毎年届けてくれた。私が、自宅を探していたころは、わざわざアドバイスをしてくれた。

「家は、環境を買うのだよ。」名言だった。

私は興奮を抑えきれなかった。最大の難関が解決される。嬉しくて小躍りしたかった。早速設計士と皆でぞろぞろと物件を見に行った。こんな近くに広い空間があったとは、誰も知らなかった。知らない訳だ。そこは古い倉庫になっていた。照明も壊れてほとんど点いていない。何と10年間使われずに眠っていた。

オーナーとも顔見知りだった。顎髭を長く伸ばし、少し猫背の人だ。私より10歳ほど年上だろう。会った瞬間嬉しさが込み上げてきた。彼も同じだ。10年も空いていた場所が埋まるのだ。誰もいなかったら、二人で抱き合ったかもしれない。彼は頑固で一風変わっていて、世間の常識とはまるで反対な生き方をしていた。金持ち喧嘩せずというが、なんでも喧嘩腰だった。私は心の中で、頑固で喧嘩腰であってくれてありがとうと思った。そうでなければ、この物件はとうに誰かに使われていたはずだ。

1年半私たちは仲良く時を過ごすことができた。最高の場所だった。近くに内科診療所もない。このまま一生ここにいても良いと思うほど、私は気に入った。しかし、毎月80万円の家賃を払うのは大変だ。平成29年12月、私たちはやっと元の場所に戻ることができた。幸運の連続に驚かされ、ただ宇宙に感謝している。平常心でいるように戒めながら。

5.黒龍

 令和元年新しい診療所で講演会を企画した。2、3ヵ月に1回、土曜日の午後開催した講演会は毎回盛況だった。その日は、ぶっちぃの講演だった。彼は背が高く優しくて気さくな青年だった。クリスタルが大好きだった。リーティングも得意としていた。

 彼の話は参加者の度肝を抜いた。ある日異言が口を突いて出たと言う。今でこそライトランゲージと呼ばれているが、その時は彼にも意味が分からなかったと言う。実は、聖書にも異言のことがかかれている。私も過去に2回異言を見たことがあった。それは、本当に驚きの瞬間だった。ものすごく早口で全く聞きなれない言葉を話すのだが、言語をしゃべっているのだと感じられる。彼もそうだった。

 それから何年もかけて彼は異言を習得し、プレアデスのヘンリーと繋がった。今では異言を挟まないで直接チャネリングできると言う。だが、異言はパフォーマンスとして人気が高かった。30分間くらい私たちはぶっちぃとヘンリーの対話を聞き、そして異言を楽しんだ。

 ぶっちぃは、60㎝くらいの球体を両手で持っているしぐさをし、その球体を回しながらしゃべり続けた。最後に、ヘンリーが去っていった瞬間、ぶっちぃは両手を閉じた。

 終わると参加者からいろいろな質問が出た。一人の若い女性が発言した。

 「ぶっちぃが両手で挟んでいたのは通信機なのです。彼は回転させながら、その通信機でヘンリーと通信していました。そして、パタンと閉じた瞬間通信機がたたまれて、上空の母船に戻っていきました。」

 皆、唖然とした。それまではぶっちぃのエンターテイメントだったが、突然現実となったのだ。母船が見え、通信機が見える人がいる。今度は彼女に質問が殺到した。会場は騒然とした。その時彼女が言った。

 「だから何なの。」

 妙齢な女性は、看護師だった。子供のころから見えない世界と交流して育っていた。その日こそ、彼女が自分の能力を初めてカミングアウトした瞬間だった。彼女はリーディングの高い能力があった。だが実践したことはなかった。早速私はリーディングしてもらった。

 「この部屋に大きな黒龍が来ています。あなたをサポートしています。」

 「いつからいるのですか。」

 「黒龍は初めからここにいるのです。黒龍があなたを呼んだのです。」

 「この建物ができる前からですか。」

 「そうです。」

 それは驚きの情報だった。黒龍はずっとずっと前からこの地にいたのだ。そう言えば、この土地には井戸があった。今では埋め戻されてしまったが、ずっと昔から井戸があって大切にされていた話を聞いている。

 私は、自分たちで理想のクリニックを作ったと思っていた。だが、それより前に黒龍がいて、私たちが黒龍に呼び集められていたのだ。今思えば、私たちが麻炭に出会ったのは、黒龍の導きかも知れない。

 診療所を設計する時、私は何かシンボルになるものが欲しかった。広い敷地にゆったりと建てる2階建て木造建築である。それだけでも都内では珍しいのだから、ふさわしいシンボルを求めていた。ある時住宅展示場で漆喰壁を見た。心地良い空間と、漆喰のひやりとした肌触りに強い印象を受けた。そこへ妻が麻炭の情報を持ってきた。真っ黒い麻炭を漆喰の下に塗ると言うのだ。

 炭には強力な浄化作用がある。その炭を麻から作るのは珍しい。麻の原型は大麻だ。大麻は日本創生の時代から大切にされてきた植物だった。神社でお参りする鈴に付けられる紐も本来は大麻だった。大嘗祭でも令和天皇の召し物は、新たに栽培された大麻から作られた。大麻こそ神聖でありながら、人類のために贈られた生命の植物だった。だが、麻薬として封印されてしまっている。

 妻と私は麻炭を塗ってくれる職人に会いに行った。狭い路地を入った一角に古い木造アパートがあった。出てきた青年は、ぶっきらぼうで思った通り口下手な青年だった。夕暮れの作業場に上がった。壁は麻炭で塗られている。唯一のサンプルだった。だが薄暗い部屋の黒い壁は印象に乏しかった。3mmの厚さで壁に塗り、その上に2mmの漆喰を重ねる。木造だが合板の建材でも塗れるかどうか尋ねると、大丈夫だと言う。だが、どうも話が弾まない。

 「昔、中山康直さんの講演を聞きましたよ。小学生の時、池で溺れた話をしていましたよ。」それは私にとって強烈な講演だった。中山さんは、池で溺れたあと生まれ変わり、1万年間プレアデスでの人生を過ごした。そして、目覚めると小学生の体に戻っていたのだ。彼が初めて大麻畑を見た時忽然とプレアデスの経験がよみがえってきた。プレアデスには、広大な大麻畑があるのだ。その後中山さんは、麻の普及に人生をかけていた。当時、ヘンプカーといって麻を燃料にした自動車を作って、全国を回っていた。

突然青年の態度が変わった。

 「そうですか。中山さんの講演を聞いたことがあるのですか。」嬉しそうだった。まるで旧知の人に出会ったように、堰を切って麻炭の素晴らしさを語りだした。

 彼は、早速建築中の現場に来てくれた。私たちは、診察室だけに麻炭を塗る予定だった。ところが、彼は一目でこの診療所が気に入ってしまった。

 「待合室も是非塗らせてください。天井も塗りましょう。」

すっかり興奮して、目がキラキラ輝いている。

 「床にも麻炭を入れたいですね。」

 実は、基礎の下には12方位の麻炭球が入っていた。土地の整地が終わり基礎工事の前に12方位の麻炭球を埋めたのだ。沖縄の伊香賀さんから届けられた麻炭球を、方位の担当者とボランティアが集まって埋めていく。そんな作業を1日かけて行った。

結局床の麻炭は採用されなかったが、診療所は、上下四方を麻炭で包まれた。自動ドアを開けて広々とした待合室に入った時、まるで別の空間に入ったような清々しさが感じられた。壁も天井も真っ白い漆喰が、居心地のよさを深めている。

6.ホームホスピス

 昭和24年私たちは小さな居酒屋に車座に座っていた。これからホームホスピスを作ろうと集まった有志たちだった。ホームホスピスは、一人暮らしの高齢者やガン末期の患者を家庭的な雰囲気の中で看取ろうとする運動である。宮崎の市原美穂さんが始め、瞬く間に全国に小さな看取りの家ができていった。

都内にも作りたいと立ち上がったのは、トマさんだった。彼女は訪問看護ステーション管理者、地域包括支援センター所長と経験を重ね、ホームホスピスを経験するため泊まり込みの研修も受けていた。トマさんは、愛情深い面もちの中に強い信念を持った人だった。

当時私は医師会で地域医療を担当していた。区民のための講演会として市原さんを招いた。すると驚いたことに150人以上の人々が集まり、医師会館3階の会場があふれてしまった。人々の関心の深さに驚かされた。

立ち上げに参加した有志は、訪問看護師、ケアマネージャー、医師などの他に、町会の役員や主婦などさまざまな人々だった。皆ホームホスピスを立ち上げることに情熱を注いでいた。

私は言った。「どうせ作るなら、みんなが希望を持てるものを作りたいですね。」

話し合いながら、これからすごいことが起きると実感した。何しろこのグループには、お金も力もないのだ。有志の情熱だけで、どんなものができあがるのか、わくわくした。

トマさんは、年2、3回講演会を開き賛同者を募っていった。NPO法人を立ち上げ、支援の基盤を作った。問題は、ホームホスピスが入る家だった。5人の利用者が入れて、家庭的な雰囲気で介護のできるスペースが必要だった。私たちは何か所か既に運営している家を見に行った。スタッフは、涙ぐましいほど心血を注いでいた。片手間では決してできない事業だ。しかし、トマさんはひるまなかった。むしろその重荷を楽しんでいるようだった。

地方では民家を借りて事業が行われている。私たちも貸してくれる人を探した。メンバーが2年間精力的に探し回ったが、全く見つからなかった。何人か提供を申し出てくださる方もいたが、家族が集まって協議すると纏まらなかった。都内は地価が高すぎるのだ。

平成29年クリニックの建て替えが始まると、私は2階にホームホスピスを併設できないか検討を始めた。だがそれはすぐ不可能なことが分かった。建築費用が高すぎた。

いよいよ本気で家を求める時が来たと感じた。物件を購入するのだ。

再び物件探しが始まった。中古物件を探し始めた。5人が暮らせて、エレベーターの設置できる建物を求めた。ところが、エレベーターが問題だった。建築確認検査済証がないと設置ができない。平成17年構造設計書を偽造した姉歯事件が起きる前の物件ではほとんど取得していなかった。消防法も立ちはだかった。スプリンクラーが義務付けられてしまった。最早中古物件で条件をクリアできるものはなかった。ついに新築物件を探し始めた。

すると、新築物件と中古物件の価格が変わらないことに気づいた。バブル当時に建てられた建物は、価格が割高になっていたのだ。物件が見つかると、現地を見に行く。何とかなるかと思って設計士に図面を送るとダメ出しが来る。そんなことを繰り返していた。どうしてだろう。

私はトマさんと何度も話し合った。するとトマさんの葛藤が見えてきた。法律の網は厳しかった。初めから完璧な施設を作ることは、ほぼ不可能だった。最悪違法施設のレッテルを張られる可能性もあった。それでもやるのか。トマさんは、苦しんでいた。

私も苦しんでいた。資金協力に限界があったのだ。物件の金額がある価格を超えると、強烈な緊張感が襲ってきた。それは不思議な体験だった。机上の計算とは違う何かの力が働いていた。

その日私たちは久しぶりに良い物件を見た。私は、これだと思った。夕方帰宅する途中、道路の正面にスーパームーンが現れた。巨大な満月だった。まっすぐ伸びた道路の果てに神々しく輝いていた。決まったと、直観した。

ところが、翌日また設計士からダメ出しが来た。

(そんな馬鹿な。)

私は混乱した。グッドオーメン、吉兆が天に現れたのに。だが、設計士は冷静だった。彼女の忠告は無視できない。私たちは再度気を取り直して探し始めた。すると、それまではなかなかふさわしい物件が出なかったのに、次々と候補が出始めた。見学が間に合わない程だ。

ついに決まる日が来た。南向きで日当たりが良く、風通しが良くて、駐車スペースがあり、近くに広い公園のある場所。都内ではありえない物件だった。すぐさま設計士も見に来た。完璧だった。

スーパームーンは、何だったのだろうか。おそらくその日トマさんが決心したのだ。宇宙は、私たちの決心によって動く。本当の信念に到達した時、初めて宇宙が動くのだ。

都内に初めてできたホームホスピスは、平成29年12月開所した。たくさんの人々の協力と愛情によって、現在も順調に運営されている。

7.直観とエゴ

 エゴとは、分離した心だ。もっと愛して欲しい。認めて欲しい。自分を一番大切にして欲しい。褒められたい。みんなエゴの働きだ。だがエゴを切り離して、捨ててしまうことはできない。この3次元世界では、エゴがなければあなたは生きられない。エゴがあなたを守ってくれているのだ。

 直観の中にエゴは混ざっていないだろうか。私はエゴとハイアーセルフからの直感を区別する方法を並木先生に聞いた。

 「区別しようとすると、あなたは迷ってしまいます。直観が来るたびにあなたはまずエゴからなのか、ハイアーセルフからなのかを考え始めるでしょう。考えることによって、迷いが生じます。それは地球の周波数です。だから、直観が来たらまずやってみるのです。その結果、自分にふさわしくないと感じたら、これは違ったと選択し直せばよいのです。考えないこと。迷わないことが大切です。」

 子供のころ、友達と彼のお父さんと電車に乗っていた。満員に近かった。私はお腹の調子が悪くて、ガスが漏れてしまった。その臭いこと。

 「誰か、すかしたな。くせえなぁ。」

 お父さんが嬉しそうに小声で言った。

 「そうですね。むにゃむにゃ。」私がすかしましたと言えなかった。恥ずかしくて、顔が赤くなった。

 それからは、勇気を持とうと思った。

 ある日、空いた電車の中で空き缶が転がっていた。初めは遠くの方で転がっていたが、なぜかだんだん私の方に転がってくる。あっちに行けと念じるが、徐々に近づいてくるではないか。ドアが開くと、私はさっと空き缶をつかんで降りてしまった。

 (できたー。)

 やってみると簡単だった。

 お年寄りが席を求めて電車に乗ってくる。

 「どうぞ、お座りください。」

 そんな会話も難しくなくなった。

 ある日ゴルフ練習場の駐車場に入るために車が長い列を作っていた。突然横から車が割り込んできた。私は言うべきだと直感した。車から降りて一言言いに行った。

 「皆さんずっと並んでいるのですよ。」

 運転席の男は、憮然として言った。

 「気が付かなかっただけだよ。」

 私は言うとすぐ自分の車に戻った。男性は、エンジンをふかしながら列から出ていった。私には、苦い後味だけが残った。言う必要がないことを知った。

 だんだん自分の中に巨大なエゴが巣くっていることが分かってきた。未だ癒されていない子供時代の自分だ。傷つき、孤立した、反抗心いっぱいのインナーチャイルドだった。いろいろなワークショップに参加するたびに、インナーチャイルドが登場した。リーディングでは、「あなたのインナーチャイルドが機関銃をぶっ放しています。」と言われた。私は毎日毎日自分のインナーチャイルドを抱きしめた。愛情を注ぎ、癒した。しかし、中々癒されなかった。人との間に壁を作っていることが分かった。いったいどうしたら完全に癒すことができるだろうか。

8.前世療法

 本屋で偶然ブライアン・ワイスの『前世療法』を見つけた。その内容に衝撃を受けた。退行催眠療法で、過去世の自分に会うことができるのだ。

 平成8年ごろ、私はようやくつながり始めたインターネットで前世療法を検索した。相模原でブライアン・ワイスに習ったという若い人が個人セッションを開いていた。早速会いに行った。

 自宅の小さな部屋で彼は誘導瞑想をしてくれた。気功の才能があるのか、変わったパフォーマンスを演じながら、徐々に私を深い催眠状態に導いた。私は気が付くと宇宙空間に漂っていた。そこから過去世に誘導された。

 「緑のピラミッドが見えます。透明で透けて見えます。たくさんの人々が道路を歩いています。通路に入りました。ここには誰もいません。小部屋があります。この部屋にも人はいません。」

 私はもう少しこの不思議なピラミッドを体験したかった。しかし、彼は次々と新しい展開へと私を誘導していった。

 「次の人生に進んでください。」

 「帆船が見えます。港に停泊しています。舳先の下の海面に人が浮いています。」

 男がうつ伏せに海面に浮かんでいた。中世の船乗りの服を着ていた。私はそれが自分であることに気づいた。

 「その人の中に入ってください。」

 「怖くて入れません。」

 私はしばらく男の周りを旋回していたが、結局入れずに戻ってきた。

 二つの光景を見ただけだったが、満足した。二つとも鮮明な映像だった。

 その後、恵比寿の村井啓一さんのところへ5回ほど通った。村井さんは学究肌だった。落ち着いた雰囲気と、十分な時間をとって催眠誘導してくれた。初めの数回は、ぼんやりとした過去世だった。だが、5回目に強烈な体験をした。

 私は地中海の小島に着地した。海岸で子供たちが遊んでいた。男の子が私に気づくと、自分の家に連れていってくれた。石造りの家に入ると、お母さんと妹がいた。明るい楽しそうな家庭だった。父親は船乗りで長い航海に出ていた。

 次の場面に進むと、同じ海岸に少年がうな垂れて座り込んでいた。案内されると家は黒ずんでいた。火事で母親も妹も死んでしまった。父親は酒浸りとなり家に帰ってこなくなった。親戚の家で少年は陰鬱な日々を過ごしていた。ある日、少年は帆船に忍び込んで港を離れた。少年は帆船の中で成長していった。

 私は少年と一緒にマストに上がった。海に沈む夕陽は、この世で見るもの以上に美しく鮮明だった。孤独と喜びが入り混じった少年の思いが伝わってきた。やがて少年はめきめきと実力を付けていった。帆船の運行を任されるようになると、少年ははるかに年下の船員に命令を出した。その威張ること、威張ること。少年は大人たちを顎で使っていた。

 そして、遂に最期の日がやってきた。舳先で船員たちに囲まれた少年は殺され、海に捨てられた。舳先の下の海面で死んだ私がぷかぷかと浮いていた。一番初めに見た光景と同じだった。死んだ少年が上空からこの人生を振り返る。そして、現在の私にメッセージを伝えるように誘導された。

 「バカでしたぁ。」

 私は号泣した。涙が溢れて止まらなかった。泣いて、泣いて、泣いて、どこから涙が溢れてくるのか分からない程泣いた。そして、私は癒された。少年は私のインナーチャイルドの影だった。我儘の限りを尽くし、威張り尽くした彼は、遂に癒されたのだ。

9.過去世

 私は前世療法に満足してしまい、村井さんのところへは行かなくなった。そしてインナーチャイルドヒーリングが誰にとっても重要だと思うようになった。そんな時、八ヶ岳の淡路紀世子さんに出会った。天使から教えられたという『光の言葉』を使って多彩なヒーリングを教えてくれた。何回か八ヶ岳の教室に通ううちに前世療法のクライアントモデルを依頼された。快く引き受けて、リクライニングチェアに座った。

 簡単な誘導瞑想の後、私は新潟の山村にいた。戦後、子供たちは集まって山の中へ入っていった。そこには戦争の残骸が落ちていた。鉄くずを拾って町で売ると小遣いになった。その場面を見て、私は衝撃を受けた。

 小学生の時、図書館で全く同じ内容の絵本を読んだ。私は身震いするほどの衝撃を受けた。自分がどうしてその絵本にそれほどまでに衝撃を受けるのかわからなかった。今、その場面に自分がいた。大人たちは、不発弾が落ちているから山に入らないように禁止した。しかし、子供たちは内緒で入っていった。

 ある日私は一人で山に入った。そしてすごいものを発見してしまった。米軍の戦闘機だった。パイロットが死んでいた。私は飛行服をまさぐり、時計や貴金属を失敬した。誰にも言わなかった。そして、一人町に出かけた。小金持ちになった私は村には戻らなかった。やがて不良の仲間になった。酒を飲み、賭け事に手を出した。

 場面が展開するうちに私は急に気がかりになった。私は昭和29年に生まれているのだ。その日が刻々と近づいていた。こんなところでワルをしていたら、間に合わない。どうなるのだろう。私は誘導瞑想を受けながら、やきもきしていた。

 突然酒場に男たちがやってきた。私は振り向きざまに銃で撃たれてしまった。撃たれながら、間に合ったと思った。

 過去世が現在の自分に大きな影響を与えていることを初めて実感した。紀世子さんのところでたくさんの過去世を見た。江戸時代駆け落ちをして見つかり切腹した過去世もあった。子供のころ夢で何度も切腹をした。そのたびは脂汗をかいて目が覚めた。ネズミになって、巨大な象に追いかけられる夢も何度も見た。中国では金持ちのお姫様だったが、気に入らないことがあって母に反抗して自ら生命を絶った。褒められるような過去世は全くなかった。

 いやしの村の中西研二は、大分県の温泉に行ったとき、自分がそこにいたことを思い出した。明治時代の過去世でその湯治場で長い時を過ごしたのだ。横町の路地の様子まで思い出したという。そこまで鮮明でなくとも、たくさんの場所の中からそこに惹かれるものがある時、過去世でその場所に関係していたのであろう。

 過去世とは何だろうか? まさしく繰り返しこの世の人生を生きた自分の歴史のことであるが、時には今回の使命を果たすためにある過去世をダウンロードしてくる場合もある。例えば、別の惑星から転生してきたばかりの新しい魂は、まったく自分の過去世を持っていないと地球での生活が不可能になってしまう。そのため今世の経験に必要十分な過去世を身にまとってから生まれてくる。

 バカバンは、アカシックレコードに保存されている過去世のデータのことをワサナと呼んでいる。人は、必要なワサナを付けてこの世に生まれてくるという考えである。

 どれが正しいということはない。すべて正しいのだと思う。昔クレオパトラだったという人が何十人いても構わない。ある人にとっては本当の過去世であり、ある人はワサナかも知れない。バシャールは、どちらにしても私たちには全く区別はつかないと言っている。

 過去世の存在は、死んでいるのだろうか。いえ、そうではない。その生命エネルギーはそこで今なおこの瞬間に生きているのだ。だから未来から訪ねてくる私たちと対話ができる。新しい経験すら生み出すことができる。

 ある脳外科医は、こんなことを書いている。過去世では、同じ姉と妹として極めて緊張した関係を持っていた。その過去世を経験したクライアントが重大なことに気づき今世の姉妹の関係が変わってしまった。彼女は再び同じ過去世を訪ねた。すると、過去の二人も全く違う姉妹になっていた。過去世もまた多次元的存在なのだ。

 バシャールは自分の過去世であるダリル・アンカを通じて、現代の地球に多くの情報と変容をもたらしている。ある時こんな質問を受けた。

 「現在の地球の人々が大きく変容してしまったら、未来のあなた方は影響を受けないのですか?」

 それはとても鋭い質問だった。バシャールはこう答えている。

 「全く影響を受けません。」

 この返答の解釈には、いろいろな意見があるだろう。どれを選ぶかは、あなたにお任せしょう。

10.組織の毒

 平成14年妻と私は湯河原の天命庵に向かった。芹澤光治良が『神の微笑』の中で描いた伊藤青年が大徳寺昭輝の名前で活動していると聞いたからだ。天理教教祖中山みきが親様として伊藤青年に降りてきて、新しい時代の真理を芹澤光治良に伝えた。晩年の芹澤はその言葉を紡いで8冊の本を執筆した。それはまさに奇跡の書と言っても良い。素晴らしい本となった。

 その芹澤は平成5年96歳で亡くなった。8年間にわたって芹澤が書き綴った伊藤青年が活動していると聞いて、私は無性に会いたくなった。どんな人なのだろう。親様にも会いたかった。

 その日は日曜日だった。天命庵は美しい純日本風の邸宅だった。既に大勢の人が庭に集まっていた。午前中は大徳寺のお話だった。40歳くらいのがっしりとした体格の青年だった。それはそれは優しい物腰と話しぶりだった。午後になると親様が舞を舞った。美しい日本舞踊の仕草にうっとりとする。大徳寺が親様になると、一回り身体を小さくして三つ指を突くような所作に変わった。口がすぼみ、いかにもお婆さん然とする。最後に参加者一人ひとりを祝福して会が閉じられた。

 芹澤光治良の死後、大徳寺が活動を始めると瞬く間に人々が集まってきた。天命庵を中心に会員が増えていった。すると会員の中から宗教法人を作りたいという機運が盛り上がった。しかし、大徳寺は団体を作る気がなかった。それでも集った人々はどんどん団体を構成していき、いつでも宗教法人になれる組織となった。大徳寺は断固拒否した。その真意が幹部にはっきりと伝わった時、組織は崩壊した。それまであれほど熱心に活動していた人たちが散り散りばらばらになり去っていった。中には大徳寺を誹謗中傷する人まで現れた。だが大徳寺は何も言わずにじっと耐えた。

 現代のスピリチュアルリーダーは組織を作らない。組織を作れば、便利かもしれない。早く活動が展開するかもしれない。しかし、組織の弊害の方が大きい。組織は、必ずピラミッド構造になる。会員の間に上下ができ、お金の流れが出来上がる。そして組織は腐っていく。人間関係の軋轢が生まれ、組織を維持するために無駄なエネルギーを消耗するようになる。理想とは程遠い現実が生まれてくる。

 ドランバロ・メルキゼデクのワークショップに参加した時、ドランバロはすべての準備を一人で行っていた。スライドの準備、マイクの調整、はてはエアコンの調整まで一人でこなした。バシャールのダリル・アンカも組織を作らなかった。エクトンのリチャード・ラビンも同じだ。私は、彗星のごとく現れた並木先生が組織や団体をどのように扱うのか興味を持った。やはり、全く組織を作らなかった。だが、長年活動をしていれば古参の取り巻きが自然と出来上がる。集ってくる人々の中で自然と重きを置かれるようになる。新たなヒエラルキーが生まれてしまう。

 並木先生は古参の人々に対して厳しかった。自立するように強烈に促した。そして、するりと指の隙間をすり抜けて去っていった。急に冷たくなる師に当惑する。ある人は疑念を抱く。二度と会いたくないと思う人もいるかも知れない。

 真理は十分に一人ひとりの中で涵養されている。最早並木先生に頼る必要はない。自分で自分の道を切り開く時が来たのだ。自分の言葉で語りなさい。自分の魂を自分で養いなさい。最重要事項は、あなたの覚醒であって組織ではない。あなたの目覚めこそが必要なのだ。

 『神との対話』のニール・ドナルド・ウォルシュは、神と出会う前にキュブラー・ロスの事務所で働いていた。精神科医のロスは、死に直面する人々のために活発に活動していた。特に愛する人を失い残された人たちのグリーフケアに力を注いでいた。ウォルシュはその才能をいかんなく発揮して強い生き甲斐を感じていた。

 そんなある日、ロスに呼び止められた。

 「あなたはいつまでもここにいる人じゃない。さあ出かけて、自分の道を探しなさい。」

 突然ウォルシュはロスの事務所から追い出された。ウォルシュは混乱した。もっとも真実に近いと感じていた場所から放り出されてしまったからだ。ウォルシュの転落が始まった。やがて交通事故にあい、頸椎を骨折した。職も失い、家族も失い、ホームレスになった。だが、そこからあの美しい本が生まれてきたのである。

 さあ、あなたも一人で出かけなさい。道はあなたの前に開かれている。進むのはあなただ。あなたの人生をあなたが切り開くのだ。誰もまねのできない、あなただけの道を進みなさい。

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サラダ油は毒です

投稿日:2021/07/29

1.サラダ油は毒です

平成31年1月6日、私たちは並木先生とアイルさんのコラボワークショップに初めて参加した。並木先生は大人気で、講演会のチケットを取るのはかなり難しかった。会場はいつも通り女性の熱気であふれかえっていた。

いつものように普段のおしゃべりから太陽シンボルの使い方、松果体の活性化ワークへと流れるように話が続く。

突然、「サラダ油は毒です。皆さんは、えごま油や亜麻仁油など良い油を摂るように心がけていると思いますが、大切なのは引き算です。サラダ油を摂らないようにしましょう。」と話し始めた。

それは、まるで私が普段使っている言い回しそのものだった。特に、「引き算しましょう」は私の口癖だった。始めは私とそっくりな話をする人だと思ったが、並木先生は油について研究してきたはずはなかった。

並木先生は、私のハイアーセルフと繋がり、私が普段しゃべっている口調でしゃべることができるのだ。それは途方もない能力だった。ゲリー・ボーネルもアカシックレコードにアクセスすることができるかも知れない。しかし、会場の任意の人のハイアーセルフから必要十分な情報を引き出し、尚且つ人々に語れる能力とは、明らかに超越的な能力だった。全人類の知識にアクセスすることのできる能力である。私はあっけにとられた。

休み時間に、先生がサインをしてくれると言うので、買ったばかりの本を持って列の最後に並んだ。

「あなたは人々の健康のために、身体的な医療と霊的な領域とをつなぐ役割があります。」並木先生は私の顔も見ないですらすらとコメントを入れ、サインをくれた。書き終わるとゆっくりと私の顔を見ていった。

「と、あなたのハイアーセルフが言っています。」

握手して、ハグしてくれた。

まったく初対面の、まだ一度も会話したこともない無名の参加者に対して、まるで大昔から知っているかのような親密さで接してくれた。私は、ただただ驚きで一杯だった。

私が、この事実を理解するまで10年の月日が流れていた。だが、この簡単な事実は、まだ世間では知られていない。もし本当に知ったら、世の中が一変してしまうほどの衝撃的な事実なのだ。

2.アトキンスダイエット

 2008年(平成20年)のある日、私はいつものように外来で診察をしていた。そこへ40歳代の女性がやってきた。彼女は糖尿病だがあまり真面目に治療に取り組んでいるとは思えなかった。数か月に1回、ふらりとやってきては糖尿病の食事療法について一談義するのだった。

「低炭水化物ダイエットがやりたいのですけど、ダメですか?」

今でこそ糖質制限として有名になったが、当時はほとんど顧みる人もいないダイエットだった。彼女はこのダイエットを始めたかったのだろう。繰り返しやってきては私に尋ねた。とうとう私も根負けをして、調べてみることにした。

有名なのは、アトキンスダイエットだった。彼は極端な糖質制限によって、みるみる体重を低下させることに成功した。その成功の秘密は、ケトン体だと見抜いていた。ところが、当時ケトン体は、医療者と糖尿病患者の間で恐れられていた。糖尿病性昏睡の時にケトン体が上昇するためである。

人間の細胞は、実は2つの栄養源を持っている。一つはもちろんブドウ糖だ。もう一つがケトン体だった。ブドウ糖は誰でも知っている。脳の唯一の栄養はブドウ糖だとしばしば宣伝されて、頭脳パンなどという商品すらできている。ところが、実は脳が利用できる栄養はもう一つあったのである。

医師も栄養師もなぜかもう一つの栄養源を無視していた。その原因の一つが、糖尿病性昏睡の代名詞にもなるケトン体の悪い印象だった。

実は、私たちの体はケトン体の方を効率よく利用できるように設計されている。考えてみよう。マラソンランナーは、2時間以上走り続ける。その間ブドウ糖だけで必要な燃料を補給できない。ブドウ糖として体内にたくわえられているエネルギーは、グリコーゲンと呼ばれわずか1,000kCalに過ぎないのである。その1,000kCalを使い果たすと、本当の無尽蔵のエネルギー源が活性化する。それが、ケトン体だ。

ケトン体は脂肪酸から合成される。脂肪酸のもとは体に蓄積された脂肪だ。1㎏の脂肪は、9,000kCalを供給できる。しかも、脳も筋肉も極めて効率よくケトン体を吸収し、エネルギーに変換できるのだ。

アトキンスは、そこに着目した。ケトン体代謝を活性化するにはどうしたらよいだろうか。炭水化物を制限すればよいのだ。身体は蓄えていた1,000kCalを使い切ってしまうとケトン体代謝を始める。脳は活性化し、身体が軽くなったように感じる。そして、みるみる痩せていくのだ。

1970年代、アトキンスダイエットは、ローカーボと言われてアメリカで大流行をした。アトキンスは低炭水化物のダイエット食を販売し大成功した。そのアトキンスが、2003年雪の日に転倒した。ICUに救急搬送されたアトキンスは昏睡のまま亡くなった。ダイエットの副作用のために亡くなったのではなく、頭部外傷、うっ血性心不全が原因だと公表されている。しかし、潮が引くように人々はアトキンスを離れていった。ほどなく会社も倒産した。

後に史上最悪のダイエットと批判されるようになった。それは、このダイエットをすると動脈硬化が急激に進行すると、動物実験で証明されたからである。

私は、まずは自分で経験してみようと早速取り組んでみた。すると、面白いように体重が減るのだ。1週間で2,3㎏体重が減少した。わずか1ヵ月で10㎏近く痩せてしまった。急激な体重減少に、周りの人が心配するほどだった。

だが、どうして動脈硬化が急激に進行するのかは解明されていなかった。私は、10㎏減量してスリムになった体で、糖質制限を続けることを止めた。体重は減るが、本当に健康に良いかどうか分からないからだった。

3.グリーンスムージー

 3年後、私は極端な体調不良に襲われた。まず、仕事中に眠気が襲ってきた。それは必死に抵抗しても抵抗しきれない眠気だった。前日8時間眠っていても眠気は容赦なく襲ってきた。特に午後3時ごろが鬼門だった。

 「先生、起きてください。」

 不覚にも患者に起こされてしまった。

 「お疲れなのでしょう。」

 「いえ、いえ、あなたのお話が長すぎて、つい眠ってしまいました。」

 訳の分からないこと言って、私は目を開けるのだが、そう言いながら目が三白眼になってしまった。

 次に、物忘れがひどくなった。状況は危機的だった。57歳にして若年性認知症になってしまったと、恐怖した。

 私は、血糖値が上下するせいで眠くなるのではないかと思った。そこで、昼食を弁当に変えた。妻に頼んで極力炭水化物を減らした弁当を作ってもらった。朝食のサンドイッチも、パンを薄切りにした。どんどん薄くしたが、まだ眠気が続いた。とうとうパンを止めて餃子の皮でサンドイッチを作ってもらった。

 ちょうどそのころ、京都高尾病院の江部康二先生がテレビ出演していた。糖質制限食で糖尿病患者を治療して素晴らしい成果を上げていた。その番組に油揚げ料理が紹介されていた。さっそく、妻は油揚げを2枚に割いてピザサンドを作ってくれた。糖質ゼロのサンドイッチができあがった。効果はてきめんだった。不思議と眠気が去っていった。

 しかし、物忘れは続いた。気力は停滞し、倦怠感が襲ってきた。朝ベッドから抜け出ることが難しくなった。まるで泥沼の中からはい出てくるような感覚だった。それは未だかつて経験したことのない倦怠感だった。いつでもだるく、頭はすっきりとしなかった。

 そんなある日、エレベーターで顔見知りの区議会議員と一緒になった。

 「先生、今度議員連中に予防医学の講演をしてください。」

 「予防医学?」

 「うちの連中は、健康を保つ知識がからきしないのです。是非先生お願いしますよ。」

 扉が開くと、議員はじゃまたと出ていった。私は、そう言えば予防医学の勉強をしたことがなかったなと初めて気づいた。

 アマゾンで検索すると、たくさんの本が見つかったが、最初に興味を持ったのはナチュラルハイジーンだった。肉食、加工食品を避けて、酵素を十分に摂取する健康法だった。なかなか理屈にかなっていた。私は早速挑戦した。妻も協力してくれた。とにかく深刻な健忘症を改善しなければならない。課題は大きかった。

 ナチュラルハイジーンを突き詰めていくと、ローフードに突き当たる。まったく過熱しないで食べる方法である。だが、ローフードを一生続けていくことは無理と思われた。また、ベジタリアンにもいろいろあるが、マクロビオティックも独立した健康法として存在していた。だが創立者の桜沢如一は、73才で心筋梗塞のため亡くなった。

 腎臓の末期がんから生還した寺山心一翁は、食事療法としてマクロビオティックを信奉していた。乳がんになったジーン・プラントは、乳がんの原因が牛乳であることを発見して、自分の末期がんを治した。

 調べれば調べるほど、混乱していった。果たして肉が健康に悪いのだろうか。狩猟採集時代には病気は少なかったと、パレオダイエットという石器時代の食生活に戻ろうとする肉食中心の食事療法まで出現している。菜食主義が本当に健康で長寿なのだろうか。世界には、宗教上の理由で菜食主義の人々が大勢いるが、彼らは決して長寿でもなく、健康でもなかった。

 地中海ダイエットも注目に値した。だが本当の世界一の長寿者は、沖縄の人々であった。野菜、魚、そして豚肉を吹きこぼして食べる沖縄料理は最高の食事として脚光を浴びた時期もあった。だが、米軍に占領されると若者たちは次々と早死にするようになった。沖縄県の平均寿命はあっという間に一位から転落した。

 私は、大量の生野菜を簡単に取れる方法として、グリーンスムージーを採用した。ちょうど蝶子さんと園子さんがブームを巻き起こしているさなかだった。妻はすぐにスムージーのコツをつかんで、毎朝作ってくれた。私は、一時は毎朝1リットル以上飲むようにした。カロリーも少ないはずだった。ところが、である。血糖を測ると200以上になった。予想以上に糖質を含んでいた。私は、300mlに制限した。

4.不整脈

 糖質制限と菜食主義は相性が悪かった。菜食主義にすると、蛋白摂取量が減り糖質がどうしても増えてしまう。補うためには大量のナッツを取る必要があった。糖質制限は、肉食と相性の良い食事療法なのだ。私は、糖質制限を止め、菜食主義に乗り換えた。そして、グリーンスムージーを中心とした食生活を始めた。菜食と酵素摂取を心がけるようにした。ナチュラルハイジーンに近い考え方だった。

眠気は起こらなくなった。体重は減少したままだった。記憶力は多少回復した。しかし、回復しないことがあった。不整脈である。私はいつの間にか不整脈に悩まされていた。胸のあたりで動悸が始まると、不快感が全身に伝搬した。心電図では二段脈だった。正常の心拍と期外収縮とが交互に起きていた。もちろん致命的な不整脈ではない。ただ、不快だった。循環器科の友人に見てもらうと、薬を勧められた。けれども薬は避けたかった。原因があるはずだ。

ちょうどその時期に、心房細動のカテーテルアブレーションが日本でも始まった。それは画期的な治療法だった。心房細動を引き起こす細胞は、左心房にあった。4本の肺静脈が左心房に流入する。その場所の心筋細胞は薄くなっており、傷つきやすかった。傷ついた心筋細胞が異常な興奮を始めると心房細動となることが分かったのだ。フランスのボルドー大学ハイサゲールは、この原理を解明しカテーテルで傷ついた細胞から伝達される信号を遮断する方法を編み出した。世界で初めて心房細動を治せるようになったのである。

ご存知のように小渕首相も長嶋茂も心房細動から脳塞栓を合併して倒れた。薬でいくら治療しても、合併症を減らすことはできてもゼロにはできなかったのだ。それを治すことができるようになった。

医師会で開催された講演会は満員の盛況だった。そこで、不整脈カスケードという言葉を耳にした。一度不整脈が始まると滝の水が下に向かって流れ落ちるように落ちていくのだ。期外収縮や右室伝導遅延と言ったごくわずかな変化から始まる。わずかな不整脈は無害であり、かつ治療法がないため無視される。だが、やがて滝の流れを下り始める。そして、頻発する期外収縮や脚ブロックへと進展する。行きつく先は心房細動か完全房室ブロックなのだ。ラッキーなことに完全房室ブロックに行きついた人は、ペースメーカーを装着すると症状は消える。だが、心房細動に行きついた人は、いつ起こるかわからない脳塞栓におびえながら一生薬を飲み続けなければならないのだ。そこにカテーテルアブレーションが登場した。画期的な技術だ。

だが、どちらの治療法も不整脈を治しているのではない。原因はいったい何なのだろうか。

医師会の友人たちと飲み会があった時、友人の一人が私と同じ症状だった。つい二人で盛り上がってしまった。だが、友人は脳塞栓を恐れて始まったばかりのカテーテルアブレーションを選択した。ところが手技がまだ確立していない技術であったせいか、治療中に空気塞栓を起こしてしまった。四肢麻痺を合併し、未だにリハビリをしている。

講演会の後、私は不整脈の原因が食べ物であることを確信した。一層に薄くなった心筋細胞が血液中の毒性物質に触れて、最初に障害されていくに違いない。毎日食べている食べ物の中に、その毒が含まれているのだ。肉なのか? 炭水化物か? 酵素不足か? 食品添加物か? 絶対に原因物質があるはずだった。専門家が見落としている身近な物質が原因に違いなかった。

5.トランス脂肪酸

 原因を求めて調べを進めていくと、サラダ油のトランス脂肪酸に突き当たった。今村光一がたくさんの本を翻訳してその危険性を知らせてくれていた。サラダ油を抽出するために溶剤を加えて加熱し、不純物を除去し、さらに脱臭する工程は、まるで化学工場だった。その過程で脂肪酸は変性し、自然界にほとんど存在しないトランス脂肪酸に変わってしまう。トランス脂肪酸は、細胞膜の構成成分となる。人間の細胞膜が劣化してしまうのだ。

 だが、自然界にもトランス脂肪酸は存在した。牛が胃袋で牧草を反芻しているうちに、胃の中でトランス脂肪酸が生成されるのだ。自然界のトランス脂肪酸は無害であることが証明されている。だが、人工的に加熱して作られたトランス脂肪酸だけが病気を引き起こすのだろうか?

 2008年、ニューヨーク市長のブルームバーグが画期的な施策を実施した。ニューヨーク市内のレストランでトランス脂肪酸を提供することを禁止したのだ。3年間の準備期間を経て実施されると、途方もないことが起こった。ニューヨーク市民の平均寿命があれよあれよという間に上昇し、ついに全米一長寿の都市になってしまったのだ。慢性虚血性心疾患の死亡率が35%も減少した。

 アメリカは、加工食品にトランス脂肪酸の含有量を表示するように義務付け、ついに2018年全米でトランス脂肪酸を禁止した。その結果、アメリカ人は世界一の長寿になっただろうか? そうはならなかった。この政策にはからくりがあったのだ。

 サラダ油の原料は、菜種、大豆、綿、トウモロコシなどである。抽出される油は、多価不飽和脂肪酸である。これは必須脂肪酸であり、サラダ油がかつてもてはやされお中元に選ばれた理由でもある。ところが、多価不飽和脂肪酸を加熱するとトランス脂肪酸になってしまうのだ。トランス脂肪酸の毒性がやり玉に上がっていたため、業界は代替品を探した。そして見つけたのが、パーム油だった。パーム油は飽和脂肪酸であるため、加熱して抽出してもトランス脂肪酸ができない。2005年ごろからパーム油の消費量が全世界で激増した。トランス脂肪酸を含む植物油の代わりにパーム油を使うようになったのだ。日本でもパーム油が大量に消費されている。

 しかし、加熱して精製されたパーム油は、今までのサラダ油と同等の毒性があった。では、加熱精製した油の何が毒なのだろうか。なかなか正体がつかめなかった。何故なら、20年以上摂取し続けて初めて病気が現れてくるのだ。動物実験では、長期間の実験はどんどん行われなくなっている。費用がかかりすぎるのだ。

6.ナポレオン三世

 植物油が初めて精製されたのは、1911年アメリカだった。クリスコがついに精製に成功した。ナポレオン三世が科学者たちに植物油を精製するように命じたのは、フランス革命後の頃、1850年代だった。当時産業革命が始まり、農村から人々が次々とパリに流入してきた。人口が激増し、バターが不足した。ナポレオン三世は、バターの代替品を植物から作るように命じたのだ。科学者たちは果敢に挑戦したが、出来上がったものは臭くて食べられる代物ではなかった。

 そしてついにクリスコが成功したのだ。実に50年以上が経っていた。この油は今までの油とは全く違っていた。長期間店晒しにしても酸化することがなく、安価だった。瞬く間に全世界に広まっていった。それまでは天ぷらや揚げ物、ケーキやクッキーを食べられるのは金持ちだけだった。

 そして人類に異変が起きた。その異変に気づいた人がいる。歯科医のウエストン・プライスだ。当時持ち運びのできるカメラが開発された。彼はその小型カメラを持って世界中の先住民を訪ねて、歯と口の状態を調べたのだ。すると、西洋文明に触れたとたんに彼らの顔貌が激変することが分かった。虫歯が激増し、頬骨が変形し、顎が小さくなり、鼻呼吸ができなくなり、乱杭歯になっていた。世界中どこに行っても同じ変化が見られたのだ。

1939年プライスは、『栄養と身体的退化』と題して本を出版した。彼は、原因は精製小麦粉だと疑った。だが、文明国から船で運ばれる物資の中に、安価で美味しい植物油が混じっていたはずだ。

 ポッテンガーは、1932年から動物実験を行い、加工肉の有害性を報告した。彼は900匹のネコを10年間飼って実験した。今では到底不可能な実験だ。ネコを2群に分け、一方のネコには生肉を与え、一方には加工肉を与えた。生肉のネコは、健康だった。加工肉のネコは、晩年になって関節炎に悩まされ、怠け者になった。1年後2代目が生まれると、中年から関節炎になり、協調性がなくなった。3代目になると、早期から関節炎にかかり、生まれつきの失明、短命が見られ、90%以上にアレルギーが見られた。さらに、顔面骨の変形まで認められた。四代目は生まれなかった。

 食べ物が骨格まで変えてしまうのだ。人類は既に110年にわたって植物油を食べ続けている。今生きているのは、4代目、5代目の人々だ。喘息、花粉症、アトピーなどのアレルギーが激増し、顔面骨が変形し、乱杭歯となり、鼻呼吸ができなくなった。関節炎は蔓延し車いすの老人が激増している。プライスとポッテンガーが予見した時代を、まさに私たちは生きているのだ。

7.認知症と糖尿病

 ついにサラダ油に含まれる毒が発見された。脳神経科学者の山嶋哲盛は、サラダ油に含まれるヒドロキシノネナールが選択的に脳神経細胞を破壊することを発見した。ヒドロキシノネナールが細胞の自己死を誘導するのだ。ほかの細胞は再生するが、脳神経細胞は再生できない。肉体は元気なのに、海馬や脳神経細胞がどんどん死んでいく。認知症発生の原理を発見した。

 山嶋は研究をまとめて本を出版しようとした。編集者は誰も素晴らしい内容だと評価し、感銘を受けた。ところがどこの出版社も引き受けてくれない。ついに見つかった出版社が教えてくれた。

「雑誌を出版している会社は、製油会社と敵対したくはないのです。公告がもらえなくなってしまいますからね。うちは、雑誌を扱っていないから出版できるのですよ。」

 製油会社もよく知っている。販売しているサラダ油には、ヒドロキシノネナールはほとんど含まれていない。完全に精製してあるからだ。ところが、加熱するとどんどんヒドロキシノネナールは増加する。つぎ足しの油が危険な理由だ。

 農林通産省が素早く対応していた。外郭団体の農研機構が天ぷら油のつぎ足しでどの程度ヒドロキシノネナールが発生するかを調べてネットに報告したのだ。数日で倍となり、50日後には極量までヒドロキシノネナールは増加する。揚げ物専門店の油程、有害アルデヒドを大量に含んでいるのだ。

 山嶋の研究と認知症の発生過程はよく一致する。認知症状が始まる20年も前から脳の変性は始まっていることが分かっている。極めて微量なヒドロキシノネナールが脳神経細胞を徐々に破壊し、症状を現すのに数十年を要するのだ。

 名古屋市立大学の奥山治美は、長年にわたってサラダ油の毒性を研究してきた。そしてついにヒドロキシ型ビタミンK1が骨のオステオカルシン活性化を阻害することを突き止めた。その結果広範な異常が発生することが予想された。骨粗鬆症、糖尿病、学習障害、心臓病、内分泌かく乱など、悪影響は多岐にわたる。

 糖尿病の原因は、サラダ油に含まれる微量有害物質だと言うのだ。今まで糖尿病の原因は高血糖だと信じられてきた。ところが、血糖値を正常化しても糖尿病合併症は予防できない。血糖値が上昇を始める前から、腎臓に障害が発生していることが分かってきた。糖尿病の本当の原因は何なのだろうか。長年専門家は探求を続けている。動物実験でも植物油を与え続けると、糖尿病そっくりな腎臓病変ができることが分かっている。

 現在糖尿病患者は激増している。たくさんの画期的な治療法が次々と生まれている。にもかかわらず糖尿病患者は増える一方だ。本当の原因を見過ごしているためだ。

 そしてサラダ油にはまだまだ未知の有害物質が含まれているが、正体は不明だ。有害性を証明するために膨大な時間と予算を必要とするためだ。

8.マインドコントロール

 まわりまわってやっと私は自分の体調不良の原因を突き止めることができた。分かれば対策はそれほど難しくない。加熱して精製された植物油を避ければよいのだ。サラダ油ドレッシング、マヨネーズを真っ先にやめた。問題は加工食品だ。天ぷらや揚げ物は食べない。ドーナツやカレーパンもやめた。袋の裏の原材料を良く見るようになった。植物油脂、食用植物油、菜種油、大豆油、マーガリン、ショートニングなどは全部植物油だ。

 すると不整脈が徐々に消えた。そう、完全に消えたのだ。菜食主義やグリーンスムージー、玄米酵素療法では改善しなかった不整脈が消えたのだ。いつの間にか倦怠感もなくなっていた。眠気も減り、頭もすっきりした。物忘れが減ってきたのが一番うれしかった。

 物忘れとは、人類の悲しい宿命だと思っていた。努力して覚えても覚えても忘れてしまうのだ。そのうち覚える努力をやめてしまう。もはや行き当たりばったりだ。だが、そうではなかった。植物油が脳神経細胞を破壊していただけなのだ。実は脳神経細胞は再生できることが分かってきた。再生できないのは、植物油を摂り続けているからだ。

 ある日、ケニア人の視力が10.0だとテレビ番組で取り上げられていた。彼は、走る電車の中から富士山頂にいる人が見えるのだ。驚異的な視力だ。その時気づいた。人間は誰でも視力10.0で生まれてくるはずだったのだ。ところが、代々サラダ油を食べ続けてきた現代人は、胎児の時から既に視神経が障害されている。日本人がとりわけ目が悪いのではない。100年以上サラダ油に漬物になっていた結果なのだと、気づいた。

 乱杭歯も口腔崩壊と言われて久しい。これも、永年のサラダ油摂取の結果である。現代人は鼻呼吸ができない。睡眠時無呼吸症候群が当たり前になった。それも顔面骨格の退行変性の結果だ。『栄養と身体的退化』でウエストン・プライスが指摘した通りなのだ。だが、人類は見事に植物油の毒性を見落としている。どうしてだろう。

 実は発見のチャンスは何度もあったのだ。だが、故意に無視し続けてきた。

 第2次世界大戦後、アメリカでは心筋梗塞が大流行した。死因のトップが心筋梗塞である。解剖すると冠動脈にべったりとプラークがついている。大動脈も分厚く肥厚したプラークで見るも無残だった。そこへ朝鮮戦争が起こった。たくさんのアメリカ兵が亡くなった。まだ20歳そこそこの彼らを解剖すると既にいつ詰まっても不思議でない程の動脈硬化が起きていた。一方北朝鮮の兵士も亡くなった。彼らの血管には全く動脈硬化はなかった。

 その時軍医のトップは、アンセル・キースだった。彼はプラークを分析し当時初めて測定が可能となったコレステロールを検出した。コレステロールこそ動脈硬化の正体だと彼は直観した。コレステロールを含むのは動物性脂肪である。肉食が動脈硬化の原因だと彼は考えた。

 そこで各国の脂肪の摂取量と心疾患死亡率をグラフにプロットした。すると、見事に直線的な相関関係が現れた。だがそこにもからくりがあった。彼は22件あったデータの中から、7件だけを抽出したのだ。動物性脂肪を減らし、植物油を積極的に摂取する新しい栄養療法の効果が調査された。その結果は期待通りにはいかなかった。

 1982年アメリカで行われたMRFIT研究では、飽和脂肪酸摂取量を減らし、植物油を増やす新しい栄養療法を比較したところ、高血圧のある群では総死亡率も心血管疾患死亡率も増加した。1995年フィンランドの調査(ヘルシンキ・ビジネスマン研究)でも、心疾患死亡率は対象と比べて2倍以上になった。2001年日本でも同様の研究が行われた。J-LITでは、リノール酸(植物油)摂取量を増やす栄養指導を行った群では、3倍近い死亡率となった。

 コレステロール原因説は急速に勢いを失ったのである。本来ならここでリノール酸(サラダ油)の毒性に気づくはずだった。

ところがそこにとんでもない薬が現れた。1973年、日本人の遠藤章が開発したスタチンである。スタチンは代謝の中心にあるコレステロールの合成を初めて抑えることに成功した。製薬会社が飛びつき、1989年から新薬が次々と発売された。今まで難攻不落だった血中コレステロール値が面白いように下がり始めた。医者も飛びついた。動脈硬化のコレステロール原因説が再び息を吹き返した。

 スタチンを使った大規模臨床試験が行われた。大規模臨床試験、それは巨大製薬会社の独壇場だ。莫大な費用と時間のかかる試験を一介の学者が実施することはできない。有名学会誌に有名大学の有名教授がこぞって論文を載せた。スタチンの有効性が証明されていった。学会では大規模臨床試験の成績が綺羅星のごとく紹介された。次々と発表される素晴らしい成果に、動脈硬化も心筋梗塞もやがて克服されるのではないかと期待が膨らむ。医療関係の情報誌には、スタチンの広告が必ず掲げられる。瞬く間にスタチンは全世界で売り上げ第一位になった。動脈硬化、心筋梗塞予防、脳梗塞予防のゴールドスタンダードに躍り出た。

 日本ではさらに徹底している。健康保険の健診制度にメタボ健診が組み込まれたのだ。連日テレビでは、悪玉コレステロールの有害性が討論された。心筋梗塞には縁のないうら若い女性まで、健診で悪玉コレステロールが基準値より高いと薬を飲むように勧められる。こうして、巨大なマインドコントロールシステムが出来上がる。最早誰一人、スタチンの有用性を疑う者もいなくなるはずだった。

 だが時々ほころびが出る。ヨーロッパでは大規模臨床試験に製薬会社の介入があったことが露呈した。2004年以降、大規模臨床試験に製薬会社が参加することが禁止された。すると新しい試験では、スタチンの効果が薄れてしまった。

 日本でもしっぽが見え隠れしている。有名なのは、血圧降下薬の臨床試験に製薬会社の統計技術者が介入し、データの改ざんが行われた事件だった。慈恵医大や京都府立医大を舞台にした事件が発覚し、製薬会社が謝罪している。

 サラダ油の毒性は未だに知られていない。過熱して精製された植物油に含まれる微量毒素によって、認知症が急増し、花粉症や喘息、アトピー性皮膚炎がこれほどまでに急増している。子供たちは乱杭歯に悩み、歯科矯正が当たり前になった。鼻呼吸ができなくなり睡眠時無呼吸症候群が蔓延している。糖尿病は急増し、合併症のため失明する人、透析を受ける人が激増している。国民医療費は高騰し、国庫を破綻に追い込んでいる。

 しかし、それだけではない。サラダ油はがんも誘発しているのだ。動物実験では、大豆油や菜種油で極めて高い発がん率が証明されている。しかもサラダ油の摂取量に比例して、癌の発生率も高くなるのだ。

 コレステロール悪玉説の悪影響は、人類全体を蝕んでいる。数十年前から、バターは動物性で体に悪いから植物性のマーガリンを食べましょうとキャンペーンされている。その結果が、現在の慢性疾患蔓延の元凶だった。

 1月6日並木先生が「サラダ油は毒です。」と演壇で語ったことは、人類にとって深遠な警告だった。過熱して精製した植物油を摂取することをやめましょう。なんど言っても足りないほど大切なことだ。

9.ALS(筋萎縮性側索硬化症)

 スタチンは、副作用が少ないと思われてたくさんの人が気軽に飲んでいる。スタチンを飲めば簡単に悪玉コレステロール値が減少し、動脈硬化が改善すると信じて。だが、スタチンには恐ろしいほどの副作用がある。

 まず、能書きを読んでみよう。筋肉痛が起こり、時に重篤な横紋筋融解症を合併すると警告が出ている。さらに、スタチンは糖尿病や認知症の頻度を上げると記載されている。かつてアメリカのメディアがスタチンの副作用を特集した。そこには、筋肉痛のため歩けなくなった人、認知症になった人など悲惨な実例が描写されている。以前はユーチューブで見ることができた。

 デュアン・グラヴェリンは、NASAの宇宙飛行士だった。年1回の健康診断では完璧な結果を要求される。彼は総コレステロールが少し高かったために、スタチンを飲むように勧められた。すると突然一過性全健忘に襲われたのだ。彼は、森を徘徊し家族に保護されたが、まったく覚えていなかった。NASAの医師と相談しスタチンをやめた。1年後の健康診断で同じ結果が出た。医師は半量にしてスタチンを飲むように指示した。6週間後再び一過性全健忘に陥った。最早間違いなかった。彼は、世界中の同様の症例を集めた。すると実に多くの人が副作用に苦しんでいた。2006年、彼は『リピトール:記憶を盗むもの』を出版して事実を公表したが、ほとんど注目されなかった。そして、ついに彼はALSを発症してしまった。スタチンの重篤な副作用にALSがあるのだ。

 弟が相談に来た。手足が震える。足と臀部がびりびりする。しっかり歩けなくなってしまった。まだ50歳代なのに、老人のように痩せて衰えてしまっているではないか。症状を聞いて、私はまずALSを疑った。大学病院の専門医に通院していた。ALSではないと思うと何度も言われたという。一度ALSですと言ってしまえば、二度と再び治ることがない神経難病だ。

 私は、弟の病歴を詳しく聞いた。すると6か月ほどスタチンを飲んでいるではないか。私はスタチンをすぐさま止めるように言った。そして、スタチンによって激減するコエンザイムQ10のサプリメントを勧めた。サラダ油の摂取をやめ、亜麻仁油を取るようにしてもらった。効果はなかなか出なかった。だが辛抱強く治療を継続した。すると、半年くらい経ったころだろうか、3%良くなったと連絡が来た。私は小躍りした。この3年間悪化の一途をたどっていたのだ。それが3%でも良くなったと感じるようになった。やがて薄皮をはがすようにゆっくりと病状は改善した。

10.オリーブオイルと米油

 オリーブオイルは、サラダ油ではない。一価不飽和脂肪酸であり、多価不飽和脂肪酸とは区別されている。オリーブオイルは安全なのだろうか? 私は低温圧搾法で抽出されたいわゆるエクストラバージン・オリーブオイルは安全だと考えている。ところが、全世界で生産されるエクストラバージン・オリーブオイルの倍量が販売されている。つまり過熱して精製したピュア・オリーブオイルが混ぜられているのだ。どうしたら本物だと分かるだろうか。ブランド会社のものやある程度値段の高いものを買うしかないだろう。見ただけでは分からないのだ。

 ドレッシングは、ノンオイルを購入してオリーブオイルか亜麻仁油を適量混ぜて使えば困らない。炒め物にはオリーブオイルが使える。揚げ物は、通常ココナッツオイルか米油を用いる。オリーブオイルを使うこともできるが、一度使った油は再利用しないほうが良い。

 オリーブオイルの安全性は長い伝統で保証されている。製造方法もきちんと管理されている。ミッシェル・ド・ロルジュリルは、地中海ダイエットの調査の指揮を執った人である。地中海ダイエットでは、心血管病のリスクが72%減少した。主な脂肪源がオリーブオイルであった。

そのロルジュリルが、『コレステロール 嘘とプロパガンダ』の中で巨大製薬会社の販売戦略を手厳しく指摘している。彼らの手の内を知り尽くしたロルジュリルの謎解きは探偵小説のように興味深い。

米油も安全な油として人気が高い。かつて米油は地方の小さな製油所で細々と作られていた。ところが安全で使い勝手の良い油として広まると、新しい製油会社が参入してきた。もしあなたの使っている米油に低温圧搾と表示されていなければ、それは過熱して精製した油だ。その中に未知の有害毒素が生成している可能性が高いので、お勧めできない。油は、あくまでも過熱しないで低温圧搾したものを使用すべきである。

賞味期限も大事だ。オリーブオイルは冷蔵庫に入れると白濁して固まってしまう。室温で保存するので、必要最小限のものを購入し手早く使い切る習慣をつけよう。3か月以上たったものは、酸化しているので使わない。

11.ココナッツオイルとケトン体

 私はココナッツオイルのファンだ。もちろん低温圧搾で抽出したものを摂取している。東南アジア、熱帯地方で長い伝統のあるココナッツオイルは、とても体に良い。しかもラウリン酸やカプリン酸、カプリル酸などの飽和脂肪酸が60%以上含まれている。つまり酸化しない油だ。

 かつてアメリカでは、肉類などの動物性脂肪に含まれる飽和脂肪酸が動脈硬化の原因だと考えられていた。実際飽和脂肪酸は、常温で固形となる。日本では常温で固形となるものに脂という漢字を当てている。ココナッツオイルも25度以下で固形となる。いかにも動脈の壁にこびりついた脂の印象である。ラードやフェットと同じようにココナッツオイルも食卓から排斥された。そのため悪い印象がこびりついてしまった。

 しかし、ココナッツオイルにはてんかん治療で処方されてきた長い歴史がある。かつてはてんかん発作を予防する良い薬がなかった。その時代、ココナッツオイルによる高脂肪食が最後の手段だった。子供たちのてんかん発作が見事に抑えられたのである。その長い治療歴によってココナッツオイルの安全性は保証されている。

 小児科医のメアリー・ニューポートは、ご主人の認知症にココナッツオイルが効くという話を聞いた。当時認知症に有効な薬はなかった。新しい薬がどんどん開発されていたが、ご主人は認知症が進みすぎていて治験に参加できなかった。彼女は少しでも症状を軽快させて何とか治験に参加したかった。そこで30gのココナッツオイルをご主人に飲ませた。すると効果はてきめんだった。言葉も覚束なく、動作も緩慢だった彼が、掃除までこなせるようになったのだ。彼女はココナッツオイルの効果を調べ上げた。すると、ココナッツオイルは中鎖脂肪酸として腸管から吸収されると肝臓でケトン体に分解され全身に回ることが分かった。ケトン体はエネルギー源として脳細胞に直接吸収されるのだ。

 実は、認知症の人はブドウ糖代謝が壊れていて、細胞の栄養が枯渇した状態だった。エネルギーの枯渇によって後は死ぬだけの状態になっていた脳細胞に、ケトン体がエネルギーを与えたのだ。彼女が本を出版すると、全世界から反響があった。奇しくも彼女は脳細胞の第2の代謝回路を再発見したのだ。かつてアトキンスがケトン体の有用性を指摘したが、動脈硬化を進展させてしまったために唾棄されていた。

彼女の発見は、認知症に別の角度からの光を与えた。脳細胞の代謝の側面である。ブドウ糖代謝の壊れた脳細胞は、云わば燃料切れの状態にある。只死を待つだけの状態だったのが、実はもう一つの代謝回路が残っていたというわけだ。だがこの回路は簡単には発動しない。前にも述べたようにグリコーゲンという1,000Kcalのブドウ糖を使い切るまでケトン体代謝は発動しないのだ。それが中鎖脂肪酸という特殊な代謝経路を持つ脂肪酸によって簡単にケトン体代謝を活性化できるようになったのだ。

さて、ではどうしてブドウ糖代謝が壊れてしまうのだろうか。その原因こそ植物油に含まれるなんらかの物質にあると思う。それは未だに解明されていない。しかし、中年を過ぎるとほとんどすべての人でブドウ糖代謝の効率が悪くなっていく。その代表が糖尿病患者なのだ。ブドウ糖はインスリンの存在下で細胞膜から細胞内に取り込まれていく。糖尿病では、インスリン自体が不足することもあるが、インスリンが存在していても細胞膜は上手にブドウ糖を細胞内に取り込めなくなっている。所謂インスリン抵抗性だ。思い出してほしい。トランス脂肪酸は自然界にはほとんど存在しない異形の脂肪酸だ。そのトランス脂肪酸が細胞膜を構成しているのだ。何らかの細胞膜の機能障害が起きても不思議ではない。すると細胞はエネルギー枯渇状態に陥る。何とかして細胞内にブドウ糖を送り込もうとするのが、糖尿病治療薬だ。

一方、細胞にはもう一つのエネルギー回路がある。ケトン体回路を活性化してあげれば、細胞は容易にエネルギーを獲得できる。それが糖質制限食であった。高尾病院の江部先生が成功しているゆえんである。

糖質制限食はマニアックな食事療法だ。特に肉食を好まない人には合わない。グリコーゲンは1,000kCalしか体内に存在しない。半日だけ糖質を取らなければ、ケトン体代謝が活性化するのだ。中年を過ぎた人たちが簡単にケトン体代謝を活性化する方法がある。それは、朝食と昼食だけ糖質を制限するのだ。すると夕食後から次の夕食まで実に23時間程度糖質が体の中に入ってこない。いやでもケトン体代謝が活性化してしまう。

食後に眠くなる人は、一食だけ糖質を抜いてみてほしい。その後眠気が起こらないことに気づくだろう。

実は空腹感は、血糖値の上下によって引き起こされている。糖質を摂取すれば必ず血糖が上昇する。上昇した血糖はインスリンによって正常値に戻される。この時空腹感を覚えるのだ。糖質を抜いたり、一食抜いたりしてみるとすぐ分かる。次の食事の時間になっても空腹感を覚えないのだ。それは血糖値が上下していない証拠でもある。

12.おやじダイエット俱楽部

 ではなぜアトキンスダイエットは史上最悪の栄養療法と言われたのだろうか。

 桐山秀樹は、長年肥満と糖尿病に悩まされていた。酒好きだった彼は、酒をやめないで痩せて糖尿病を直す方法を探した。そして、糖質制限食に行き当たった。酒の中では、蒸留酒が糖質を含んでいない。ウイスキーと焼酎だ。酒の肴には、糖質を含まないものがたくさんある。干物や魚介類、卵、豆腐、納豆、漬物などなど。桐山は、大好きな酒を飲み続けながら、みるみる痩せていった。同時に血糖値も改善した。3か月で15㎏痩せたのだ。あれほど苦労しても全く変化しなかった体重が、いとも簡単に痩せた。感激した桐山は、仲間のジャーナリストや友人たちに糖質制限食を紹介した。すると皆同じように苦労することもなく痩せていった。ついに彼はおやじダイエット倶楽部を創設し、全国で講演をするようになった。本も何冊も書いた。料理本も作った。そんな絶頂期の彼が、ある日ホテルの一室で亡くなっていた。心筋梗塞だった。糖質制限食を初めてわずか5年の悲劇だった。

 テレビをつけるとちょうど江部先生がインタビューを受けていた。

 「どうして桐山さんは、心筋梗塞になったのですか。」

 江部先生は動じることなく言い放った。

 「彼はもともと糖尿病だったのです。人よりも動脈硬化になりやすかったのです。」

 糖質制限食の危険性に関する注意はなかった。

 そう、実際糖質制限は極めて危険な食事療法なのだ。なぜなら、3大栄養素のうち糖質を極端に減らしてしまうからだ。当然全カロリーに占める脂質とタンパク質の比率が上がる。特に脂質の量が増えるのだ。ところが、現代人が食べている脂質のほとんどは植物油である。天ぷら、揚げ物、油揚げ、サラダ、サンドイッチなどなど、ありとあらゆるものに植物油が塗り込まれている。動脈硬化を促進させるリノール酸を大量に摂取すれば、行きつく先は決まっている。

 糖質制限をする人は、植物油を極力減らさなくてはいけない。細胞膜に組み込まれたリノール酸が代謝されてアラキドン酸となり、そのアラキドン酸からプロスタグランジン、ロイコトリエンなどの炎症性ケミカルメディエーターが合成されるのだ。動脈硬化は炎症から進展する。リノール酸リッチの食生活では、炎症という火を体の中で燃やしているようなものだ。

それに対して、亜麻仁油やえごま油、魚油のEPA、DHAは、ω3脂肪酸と呼ばれて炎症を鎮める作用がある。江戸時代の日本人は、ω3脂肪酸とω6脂肪酸(リノール酸)の比率が、1対1だったと言われている。現代人はそれが1対5~10に偏っているのだ。これでは、いくら亜麻仁油やえごま油を摂取しても焼け石に水だ。まずはリノール酸を減らすことから始めなくてはならない。それが、「引き算が大事だ。」という意味である。

13.菜食主義

 菜食主義は果たして最良の健康法なのだろうか。菜食主義者が必ずしも長寿ではないし、健康なわけでもない。それは、知らず知らずのうちに大量の植物油を摂取してしまっているからではないか。

 それでは、ローフードはどうだろうか。生で野菜を食べるのだ。もし植物油を大量に使っていれば、彼らも落とし穴に落ちている。ヴィクトリア・ブーテンコは、有名なローフーディストだった。彼女はロシア出身である。ソ連邦崩壊のあと、家族でアメリカに移住してきた。そこで彼女が見たのは膨大な食品がきれいに並べられたスーパーマーケットだった。どの食品にも健康に良いと書いてある。一家はアメリカ食品を買いあさった。その結果体重増加、甲状腺疾患、糖尿病、喘息などなど、ありとあらゆる病気にかかってしまった。

 もう一度健康になりたいと願う彼女が最後にたどり着いたのが、ナチュラルハイジーンだった。冷蔵庫にある加工食品をすべて捨て、酵素たっぷりの生野菜、果物、ナッツ中心の食事に変えた。一家はみるみる健康になった。彼女は本を書き、有名なローフーディストの仲間入りをした。

 ところが、である。数年すると彼女に体調不良が訪れた。再びヴィクトリアの挑戦が始まった。もっと先に戻ろう。彼女がお手本にしたのはチンパンジーだった。生の菜食だけであの強靭な身体能力を維持できているのだ。だが、ヴィクトリアはどうしても生の野菜を食べ続けることができなかった。試行錯誤を続ける彼女に光が訪れた。生野菜と果物を一緒にミキサーにかけてみたのだ。青々とした緑の液体が出来上がった。彼女は恐る恐る飲んでみた。「うまい!」思わず彼女は叫んでしまった。見かけは緑のジュースなのに、甘いのだ。こうしてグリーンスムージーが生まれた。

 日本にも蝶子さんと園子さんが紹介した。私たちは、彼女たちと意気投合してしまった。数年すると、あれほど活躍していたヴィクトリアがロシアに戻ってしまった。私には理由が分からなかった。そして、2015年ヴィクトリアがロシアから来日することが決まった。期待はいやが上にも盛り上がった。

 ところが、会場に入ってきたヴィクトリアは健康とは程遠い姿だった。太りすぎており、股関節が悪いのか足を引きずっていた。しかし、講演は素晴らしかった。いつもながら真実の探求だった。彼女は正直だった。

「世界で有名な3人のローフーディストが集まった時、彼女たちのように熱心に徹底的に取り組んだ人たちよりも、手を抜いていた人たちの方が健康かもしれない。」それが、彼女たちの結論だという。

ヴィクトリアの娘も熱烈なローフーディストだった。ところが、極度の貧血に悩まされていた。病院を何カ所も受診したが、鉄の血中濃度は正常であった。原因不明の貧血と言われて治らなかった。ヴィクトリアはいつものように猛烈に調べ上げた。鉄を利用するためには銅が必要なのだ。ついに原因を発見した。極端な菜食主義では、銅の摂取不足が起きてしまう。ヴィクトリアは銅をたくさん含んでいる食べ物を探した。エビだ。エビには銅がたくさんある。ところが長年の菜食主義者は、エビを食べることを恐れた。かつての苦い経験が脳裏に蘇るのだ。だが、ヴィクトリアも強硬だった。ついに娘にエビを食べさせた。するとどうだろう。あれほど頑固だった貧血がみるみるよくなっていったのだ。

それを見たヴィクトリアも一つの決心をした。実は長い間倦怠感が続いていたのだ。徹底した菜食主義だけでは、何かが足りないのかもしれない。彼女は卵を食べる決心をして、郊外の平飼いの養鶏場を訪ねた。1ダースの生卵を買って自宅で料理するつもりだった。ところが帰り道に無性に卵を食べたくなったのだ。ついに彼女は車を止めると、生卵を食べだした。ひとつ、ふたつ。ついに半ダースを一気に食べてしまった。身体が要求するのだ。身体は不足しているものを知っている。それからのヴィクトリアは、菜食主義者ではなくなっていた。私たちと一緒にレストランに入った時、彼女は肉の混じった料理を注文したのだ。

何が最善の食事療法なのか、誰にも決められない。もちろん残留農薬や食品添加物、水銀などは少ない方がよいに決まっている。悪いものは山のようにある。そのすべてを排除しようとしたら、途方もない困難が待ち受けているだろう。ほどほどでよいのかも知れない。

しかし、最大の毒は過熱して精製した植物油なのだ。これだけは極力排除したほうが良い。それが、私の10年間の遍歴の結論だった。

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みえない宇宙の力

投稿日:2021/07/26

1.エイトヒーリング

 令和2年4月、私たちは白鳥哲監督の映画を見るために友人の家に5人で集まった。小さなプロジェクターから白い壁に映し出される映像は、衝撃的だった。祈りにどれ程の力があるのか、監督の強い思いが見事に描写されていた。特にリン・マクタガートの祈りの活動には強烈な印象を受けた。祈りの効果を科学的に実証しようという彼女の試みは、多くの人の心を打ち世界中にサークルができていた。

 私は、リン・マクタガートを知っていた。かつて彼女の『フィールド:響き合う生命・意識・宇宙』を読んでいた。それは世界中で行われている意識の力を証明する実験を、精力的に集めた本だった。特に私の心をひきつけたのは、過去を書き換える実験だった。意識は過去に影響を与えることができるのか?

 ロバート・ジャンは、乱数発生器を利用した。短時間に膨大な数の乱数を発生させる。例えば奇数と偶数に分ければ、必ず50対50になるはずだ。乱数が発生している間、念の強い人がどちらかに偏るように意図する。するとわずかだが結果に影響を与えられる人が見つかった。48対52のように偏りはごくわずかだったが、統計的にはあり得ない誤差が生じた。

 実験はこうだ。意図を送るよりもはるか前に乱数を発生させた。その記録テープをコピーする。コピーを金庫にしまう。さて実験の日がやってきた。被験者にはすでに乱数が発生されていることは知らせていない。彼はいつものように乱数発生器に念を送る。時間が来て、結果を調べると、念を送られたテープはいつものように誤差が生じていた。金庫のテープを取り出して調べると、全く同じ結果が記録されていた。

 意図は、過去を書き換えたのだろうか? まるで量子力学の実験のように、人が存在することが結果を決定するのだ。この実験の科学性は未だに議論されているようだが、議論は専門家に譲ろう。

 その後のリンの実験を私は調べた。リンは、意図の力を客観的に証明することよりも、実験に参加した人たちの心の変化の方に興味を移していた。平和の意図を送って地域の紛争を減らそうとする実験では、結果よりも参加者の意識の変化に驚いた。不眠症が治り、夫婦仲が良くなり、仕事上の悩みが減った。そんなポジティブな感想が次々とリンのもとへ送られてきたのだ。

 リンは、パワーオブエイトという小さな祈りのグループを世界中に作った。たった8人の祈りのグループが、大きな成果を上げていた。祈りには手順がある。ユーチューブに、リンとエリック・パールの対談が上がっていた。

エリックは、かつて日本にもリコネクションというブームをもたらした人だ。会場に現れる時、手にコーラを持ってにこやかに現れ、参加者の病気を次々と癒していく青年の姿は、私たちを魅了した。その彼が、ユーチューブではちょっと老けて見えた。あれから10年以上たっているのだ。

祈りの手順が大切だ。エゴから出た祈りは効果が少ない。場合によっては、クライアントとあなたとの間にカルマ的関係を作ってしまう。ヒーラーは高次のエネルギーの導管になった時、最も高いエネルギーを流すことができる。その時奇跡的治癒が起きる。同時にあなたも同じ高次のエネルギーを受け取る。祈りの核心は、いかにエゴを離れて高次のエネルギーと繋がるかにある。二人の対談は、そのことを伝えていた。

私は、早速シャスティーナの仲間たちに祈りのグループを作ろうと持ち掛けた。令和2年6月、新型コロナウイルスが猛威を振るいだし、日本は緊急事態宣言の真っ最中だった。私たちは、ZOOMで集まることにした。

誘導瞑想しながら、各自がグラウンディング、センタリングし、ハートの聖なる空間・聖心に入っていった。そこで参加者の集合意識体を作りユニコーンヒーリングを行うことにした。エゴの入り込む余地を極力排除して、自分たちをユニコーンのエネルギーの導管として使うことにした。実際にやってみると、参加者は予想以上のエネルギーの流れを体感した。全身汗だくになる人もいた。手がびりびりとしびれるようなエネルギーに包まれたり、身体が光に包まれるのを実感した。中には手のひらに金粉が現れる人もいた。

私は、この手順をエイトヒーリングと名付けた。

2.奇跡的治癒

 ZOOMでエイトヒーリングを始めてみると、その効果に度肝を抜かれた。初めてのクライアントは、私の患者だった。

ちょうどエイトヒーリングの準備をしている頃に、国立病院から在宅診療の申し込みがあった。50歳代女性、卵巣がんの末期だった。余命は2,3週間、急いで退院したい様子だった。退院予定日は6月22日、担当のケアマネージャーや訪問看護ステーションは既に決まっていた。実は別の在宅専門診療所が引き受けるはずだったが、都合が悪くなり、患者宅のすぐ近くの私たちが選ばれた。いつもは病院で開かれる退院前カンファレンスに参加していたが、直前の開催に私の日程が合わなかった。私は、しばらく眠れない日が続くなと覚悟した。

 ところが、昏睡になったため退院が延期になったと連絡があった。その数日後、主治医から直接電話がかかってきた。

 「意識は戻りました。まだ会話はできません。失語症があります。脳MRでは、異常がなく、昏睡の原因はわかりませんでしたが、がんの転移ではありませんでした。食事がとれないので、中心静脈栄養を入れています。6月27日に退院したいのですが、よろしいですか?」

 「大丈夫ですよ。」

 主治医はかなり慌てているようだった。

 「もしかしたら、今月いっぱいかも知れませんが、よろしいですか?」念を押した。

 私は、いくつか病状を確認し、中心静脈カテーテルは抜いてもらうように頼んだ。終末期では栄養よりも水分の入れすぎの方が厄介だった。

 退院するとすぐ私は訪問した。部屋には、病人の他にご主人、ケアマネージャー、看護師がいたが、すぐ場所を開けてくれた。彼女は、うどんを食べていた。

 「うどんが食べられるのですね。ご主人が作ったのですか?」

 私はびっくりした。主治医から聞いていた病状とあまりに違っていた。

カウンター越しの台所にいたご主人が返事をした。

「いやぁ、セブンイレブンのですよ。」

私は、祈りのグループのことをご主人に紹介した。

「明日仲間がZOOMで集まって、祈りのエネルギーを送りたいのですが、よろしいですか?」

すると、ご主人は打ち明けてくれた。

「私たちの親しい友人が外国にいるのですが、彼女は音楽家なのですが、祈りを送ってくれています。是非お願いいたします。」

 こうしてエイトヒーリングに仲間が集まり、祈りのエネルギーを送った。彼女の回復は目覚ましかった。会うたびに言葉がはっきりとしてきた。すぐに一人で寝返りが打てるようになり、1ヵ月もすると歩けるようになった。退院直前には腫瘍で盛り上がっていたお腹が、かなり平らになってきた。3ヵ月後、腎瘻カテーテルと人工肛門閉鎖のため、本人が国立病院の主治医に電話をかけた。

 「先生は、びっくりしたみたいです。私が話し終えると、先生の方から『あなたは本当にご本人なのですか?』って尋ねられたのです。『そうですよ。私です。』って答えました。」

 その後彼女は国立病院に再入院し、開腹手術を受けた。残っていた卵巣腫瘍を全部取り切り、腎臓カテーテルを抜去し、人工肛門を閉鎖した。すべてが順調に進んだわけではなかったが、彼女のがんは完全に消え去っていた。

 私は1年間、彼女の回復を見守った。ゆっくりではあったが、確実に回復した。腫瘍マーカーも着実に減少し、ついに正常になった。きっと国立病院の先生は、抗癌剤が奇跡的に効いたと思うのだろうなと、私は思った。

エイトヒーリングの効果で良くなったと思いたかったが、実際には、彼女は自宅に着く前から治り始めていた。病院では臨終直前だったのに、1時間後自宅に着いた時には、うどんが食べられるほど回復していたのだ。

 奇跡的治癒。それは本人が引き起こしている。周りで治療に携わる人たちは、自己治癒のサポートをしているだけなのだ。まさに絶妙のタイミングで、奇跡が起きる。その力の源は宇宙の精妙な配材だ。誰一人欠けても奇跡は起きないだろう。エゴの力で奇跡を引き起こすことはできない。私は、貴重な奇跡的治癒の現場を目撃できたことを、神に感謝した。

3.怒りとがん

 友人の医師から電話がかかってきたとき、私たちは訪問診療の車の中だった。

 「おれ、がんの末期みたい。」

 「何を突然言っているのだい。どんな具合なの?」

「1ヵ月前から食べられない。だるくて、だいぶ痩せた。きっと胃がんの末期だよ。」

 「どんな検査をしたの?」

 「何にもしていない。」

 「医者なのだから、検査ぐらいしてみたら?今からでもうちのクリニックに来て、CT撮ってみたら?」

 私は友人にすぐさまクリニックに行くように伝えた。クリニックにいる非常勤の先生にも連絡を付けた。1時間ほど経った頃、先生から電話がかかってきた。

 「今CTを撮り終わったのですが、ご本人に見せてもよいかどうか相談したいのです。」

 「どんな所見なのですか?」

 「肝臓に腫瘍がたくさんあります。胸水もたまっています。膵臓がんかも知れません。見せても良いですか?」

 「見せない訳に行かないですよね。見せてあげてください。」

 翌日友人から電話があった。

 「あれからすぐ病院に行って、検査を受けてきた。診断は同じだった。もう手術もできないし、抗癌剤も効かないかも知れない。おれ、今月いっぱいで診療所を閉めるよ。治療は広島に帰ってからするから。患者さんの紹介状を書くから、在宅患者を頼むよ。」

 まったく意気消沈していた。月末までわずか2週間しかなかった。私が様子を見に行くと、疲れ果てていた。カルテが山積みになっていて、紹介状を夢中で書いていた。

 「おれ、どんどん歩けなくなる。往診もいけなくなってきた。今月いっぱいも無理かもしれない。」

 かける言葉もなかった。結局月末を待たずに閉院して、故郷の広島へ帰っていった。私は何度も携帯電話に連絡したが、応答がなかった。広島の所在も分からなかった。3ヵ月後、医師会に訃報が届いた。

 彼とは数年来新宿界隈で飲み歩く仲だった。心に強烈な怒りを抱えていた。誰かに打ち明けずにはいられない程、張り裂けるような怒りだった。広島で幸せな新婚生活を送っていた。初めての子供は男の子だった。ところが、わずか3歳の時に交通事故で亡くなってしまった。傷心の彼は、義父に誘われるままに東京に出てきた。義父の診療所を手伝うためだった。

 ある日、家族の集まりでぽろりと義母が漏らした。

 「おしゃべりに夢中にならなかったら、あんなことにならなかったのにねぇ。」

 おしゃべりって何の話だ。彼は疑問に思った。妻は家の前でおしゃべりに夢中だった。子供はちょうど止まっていた車の下に入り込んでしまった。何も知らない車が発進し、轢かれてしまったのだ。彼は事故の真相を何も知らされていなかった。交通事故だとばかり思っていたのだ。怒りが天を突いた。遂に彼は離婚した。それだけではない。財産分割のために裁判を起こし、最高裁判所まで争った。裁判に勝っても彼の怒りは治まらなかった。

 やがて彼は幼馴染と再婚した。私たちは何回か一緒に夫婦で飲みに出かけた。優しく謙虚な奥さんだった。彼は有頂天だった。新しい奥さんと海外旅行によく出かけた。新しい診療所も順調だった。自分の論文が学会誌に載ったと見せてくれた。しかし、彼は新しい裁判を起こしていた。彼の正義感が、妻や義母たちが事実を隠していたことをどうしても許すことができなかった。そして、膵臓がんになった。

 数年後、私はあるワークショップに参加した。瞑想して会いたい人に会うワークだった。彼が出てきた。何年ぶりだろう。私は彼を抱きしめた。懐かしかった。元気そうだった。その笑顔の何と嬉しそうなこと。私は泣いた。泣いて彼を抱きしめた。すると突然彼が砕け落ちてしまった。足元に彼の骨が散乱していた。骨はさらに崩れて、地面を突き破って下へ下へと落ちていった。私は呆然と沈んでゆく彼を見送っていた。

 「追ってはいけないわよ。」

 講師が声をかけてくれた。私は頷いた。会えただけでもうれしかった。

 「追わないで。彼には彼の運命があるのよ。」

 友人は正義感の強い人だった。その正義感のゆえに身を滅ぼしたともいえる。しかし、実際は許しを体験するために地上にやってきたのだろう。奥さんはカルマ的な縁で彼の望みを達成するために役割を演じただけだ。だが、彼は自分の本当の目的に気づくことができなかった。こうして真実の自分に気づくまで、私たちは輪廻を繰り返すのだ。

4.降りていってはいけません

 「共感と同情は違う。共感しても良いけど、同情してはいけない。」

 並木先生はよくそう教えてくれた。同情とは、可哀想だと思う心だ。相手を弱い人、不幸な人、力のない人と思い、憐れみを感じる。それは、自分を高いところに置き、相手を低いところに見る分離の視点だ。分離こそ3次元の地球の波動である。だが、私たちは同情心こそ大切な心だと教えられ、深く深く染みつけてしまっている。同情こそ愛だと思い込んでしまっている。しかし、それが不幸の始まりなのだ。

 シャーリープトラは、お釈迦様に尋ねた。

 「師よ、この世の中が不幸に満ちているのは、かつてあなたの心が迷っていたからですか?」

 「シャーリプトラよ、お前にはこの世の中が不幸に満ちて見えるのか? そうだとすればお前には高下の心があるからだ。私の国土は未だかつて不幸であったことはなく、常に安穏であって、こんぱらげの花が咲き乱れ、天女が踊り舞っている。」

 高い低いの心。それが分離の視点だった。経典は2500年の昔からそのことを教えている。

 リーディング・チャネリングのワークショップの時だった。参加者の先祖と繋がるワークがあった。私は、亡くなった人との対話が苦手だった。けれども誰も手を上げる人がいないので、思い切って手を上げた。私は、皆の前に出て心を落ち着けた。意識をグラウンディングして、アンテナを高く延ばす。参加者の先祖と交流しようとした。

 すると足元に誰かいるのが分かった。縮こまって辛そうな魂だった。交流を始めると、彼は線路に飛び込んで自殺した魂だった。

 並木先生が訪ねた。

 「その人は、この参加者の先祖ですか?」

 「いえ、違うようです。」

 「だったら、リーディングを止めて戻ってきて。」

 「戻れません。」

 「どうして?」

 「彼を救いたいから。」

 「今日のテーマではないから、戻ってきて。」

 私は戻ってくることができなかった。寒さに凍え、縮こまって苦しむ魂を見捨てられなかった。結局、大天使ミカエルに助けてもらってこの魂を光の国に連れていってもらった。

 「(周波数の)高いところから、降りていってはいけないのですよ。降りていけば、あなたも溺れるだけなのです。高いところに留まって、相手の話に共感するのです。決して同情してはいけないのです。」並木先生が、丁寧に教えてくれた。

 医療関係の仕事をしていると、この簡単なことを守ることが難しかった。医療者と患者。それは、助ける人と助けられる人との関係だった。だが、分離の視点があれば、宇宙の力は働かない。私は自分の究極の弱点を知った。

 自分が分離の視点に立っているかどうか、どうしたら気づけるだろうか。

 「あなたは、相手を手放すことができますか?」

 「あなたは、相手を放っておくことができますか?」

 「あなたは、相手の判断を100%受容することができますか?」

 簡単な質問が、自分の心のありかを教えてくれた。

5.看取り

 その人は、区民健診にやってきた。健診の結果貧血が見つかった。私は、胃内視鏡検査を勧めた。すると大きな胃がんが見つかった。すぐさま総合病院に紹介状を書いた。しばらくすると、お嬢さんと二人で外来に戻ってきた。

 「検査の結果はいかがでしたか?」

 「末期がんでした。肝臓に転移して手の施しようがないそうです。緩和ケア病棟を紹介されました。」

 二人は深刻な面持ちだった。お父さんは緊張で震えていた。

 「苦しんで死ぬ人はいません。死ぬときは、本当に安らかな気持ちになるのです。地上の役割を終えて、天国に帰っていくのですから。」

 私は死について話をした。

 「まだやり残したことがあるのですか?」

 「いやぁ、この年になってもう十分やりたいことはやってきました。ただ、苦しむのじゃないかと心配だったのです。」

 親一人、子一人の場合が、一番心の絆が強かった。子供は、どんなことがあっても親に生きていてほしいと願う。親が逝ってしまったら、天涯孤独になってしまうと言う恐れが強かった。彼女もそうだった。恐れが強いほど、逝く人は苦しむ。

 彼女は父を連れて、いろいろな病院を受診した。だが、結果はみな同じだった。残された選択肢は、自宅で看取るか、緩和ケア病棟で看取るかしかなかった。娘は、父親と離れられなかった。しかし、仕事を抱えているので、24時間父の面倒を見ることもできなかった。私たちは、ぎりぎりまで自宅で過ごし、手に負えなくなった時に緩和ケア病棟に入院する手はずにした。

 父は、徐々に食べられなくなった。足は細くなり、1階のトイレに行くのが難しくなった。ポータブルトイレを借りて、自分で用を足した。なるべく娘の手を煩わさないように、ひたむきな努力をした。娘は会社の昼休みに戻ってきて、父の介護を続けた。

吐血もなければ、腸閉塞もなかった。がんの痛みもほとんどなかった。鎮痛剤はほとんど使わなかった。しかし、身の置き所のない倦怠感はどうにもならない。

「痛がっているのじゃないですか? 苦しいのを我慢しているのではないですか?」

娘は、父を心から気遣って尋ねた。父も娘の手を煩わすまいと必死だった。体力は徐々に落ちていく。別れの時が近づいていた。娘は2週間の介護休暇を取った。

私は、朝に夕に訪問した。父は、見るからに苦しそうに見えたが、返事はいつも大丈夫だった。

私が訪問すると、娘はたくさんのことを話した。お茶を出してくれ、アイスを出してくれた。母を看取った時のこと。父の介護の工夫。仕事のこと。

そして、父は静かに息を引き取った。連絡を受けると私はすぐに自転車で駆けつけた。娘の友人と3人で看取った。

「最後の2日間は本当に苦しそうだった。」娘は介護の辛さを打ち明けた。私たちは、冷たくなっていく父の体を囲んで、1時間ほど話し合った。

「死は旅立ちです。苦しい肉体からの解放です。永遠の別れなどありません。お父さんはいつもあなたと一緒にいますよ。これからあなたはそれを実感するでしょう。」

友人も同じことを言った。徐々に娘の気持ちは安らいでいった。

「やりとげました。もう大丈夫です。満足です。」

しばらくして、街中で娘を見かけた。颯爽と自転車をこいで、明るい笑顔だった。

「あっ、先生。」通り過ぎてしまってから、娘は気づいた。

看取りが終わって、私はどっと疲れてしまった。いつもなら一晩眠れば回復するはずだったのに、3日間疲労が続いた。鉛のように体が重たかった。

もしかして? 私は足元を見た。父がそこにいた。

「なあんだ、おとうさん、ここにいたのですか。」

私は笑ってしまった。当に天国に旅立ったと思っていたのに、父は私にしがみついていたのだ。どおりで重たいわけだった。さあ、どうやって天国に行ってもらったらよいのだろうか? 私は、大天使ミカエルを呼んだ。大きな箱を作って、ミカエルに天国に連れていってくれるように頼んだ。父が、次第に浮かび上がって天上に上がっていくのが感じられた。

父が去ると、急に体が軽くなった。突然元の自分の体に戻った。

並木先生に話すと、笑って教えてくれた。

「それって、憑依だったのだよ。」

「そうなのですけど、私にも霊を上げることができて、嬉しかったのです。」

今までは、特殊な能力のある人にしかできないと思っていたことが、いとも簡単にできたことが嬉しかった。それは、誰にでもできることだったのだ。

6.夢

 平成10年ごろだった。私は夢を見た。夢の中でまだ3歳くらいの姪と遊んでいた。姪はかわゆく溌溂としていた。遊びながら突然私は、姪の左目に手を突っ込んで取り出してしまった。目の玉が私の手のひらで転がっている。私は驚いて目の玉を元に戻そうとした。ところが目の玉はうまく元に戻らない。「うわーっ、一体なんてことをしてしまったのだ。」夢の中で、私は冷や汗を流して狼狽えていた。布団の中でばたばた暴れながら、目が覚めた。あーっ、夢だったのだ。夢でよかった。

 あまりに鮮烈な夢だったので、私は友人の精神科医に夢の意味を尋ねた。

 「3歳くらいの子供なのですね。それは、3年以内の出来事ですよ。目の玉は生命を表わします。あなたがこれからやろうとしていることは、生命を奪ってしまうような行為だと、夢が警告しているのではないですか? それが何を意味しているのか、ぼくには分らないけど。」

 私には思い当たることがあった。1年前常勤の内科医を雇った。採用前の面接資料では、とても優秀な人だった。台湾出身だが、日本の医学部を卒業し、英語と中国語が堪能だった。都内の有名中堅病院の内科医長をしていた人だ。こんな素晴らしい人が私たちの小さな個人病院にどうして応募したのか、不思議なくらいだった。面接も高評価だった。

 ところが、この人は全然働かない人だった。午前中たった6人診察しただけで、今日はたくさん働いたなとつぶやいていた。午後は病棟回診をさっさと済ますと、部屋でゆっくり読書をする。おまけによく休んだ。

毎月のように、台湾の母の具合が悪いので、休ませてくださいと2,3日の休暇を取った。ある時、台湾で大地震があった。彼の実家の台北も被害を受けていた。

 「先生、ご実家は大丈夫ですか?」私は尋ねた。

 「実家? 台湾のことですか?」

 「そうですよ。すごい地震があったじゃないですか?」

 「地震? そうですね。叔母の家が少し被害にあいました。」

 全然台湾の地震には興味がないようだったのが、不思議だった。

 当時個人病院は火の車だった。医療崩壊が叫ばれる前のことだった。厚労省は、200万床ある日本の入院ベッドを100万床にすると豪語していた。小さな個人病院が次々と閉院していた。私は昼間外来と病棟をこなし、夜当直をし、休日診療もするといった状態だった。夜勤は大学の研修医が埋めてくれていたが、しばしば電話一本で休んだ。

 契約更新の日が近づいていた。事務長と私はどうしようか相談した。私は絶対更新しないと息巻いていた。そして夢を見た。「生命を奪う」という言葉に引っかかった。どういう意味だろう。皆目見当がつかなかったが、様子を見ようと思った。

 面接の日、内科医から提案があった。

「あと半年ここで勤務させてください。」

自分があまり働いていないという自覚だけはあるようだった。これからはもっと一生懸命働きますからというニュアンスが感じられた。

 半年後、内科医が嬉しそうに話しかけてきた。

 「高田馬場に素晴らしい物件が見つかったのですよ。数年前から狙っていたのですが、オーナーがどうしても貸してくれなかったのです。」

 どうやら開業するらしい。彼は夢中でしゃべっている。

 「駅前だし、あそこは中国人や外国人が多いので開業にはうってつけなのです。突然オーナーの考えが変わったらしくて、賃貸の案内が来たのですよ。私が一番乗りでした。」

 興奮は止まらない。

 私たちはささやかな送別会を開いた。そこで分かったのだが、彼は離婚問題で追い詰められていた。一人娘は歯学部に通っており、学費がかかった。離婚、再婚、娘の卒業、開業とようやく1年半で彼は新境地に到達した。やっと、目の前がぱーっと晴れたのだろう。仕事どころではないはずだ。

 思い当たることがあった。彼は1週間仕事を休んで、エジプト旅行に行った。

 「50度の炎天下で大変でしたよ。」

にこにこしながら、お土産のパピルスをくれた。たった一人でエジプトに行って、何が楽しいのだろうと訝っていたが、それは楽しいはずだった。

 宴会が終わるころになると、彼は感極まって私の手を握って離さない。

 「先生のおかげです。先生の仕事ぶりを参考にします。とっても勉強になりました。」

 「開業って大変ですけど、頑張ってくださいね。」

 「大丈夫です。頑張ります。」

 彼は、新しい診療所のチラシを見せてくれた。なんと日曜日も診療するではないか。おまけに在宅診療もすると書いてある。彼の今の働きぶりからは想像もつかない内容だった。

 彼はさわやかに去っていった。後任の医師はすぐに決まった。恩師の外科部長から電話があった。

「開業したい先生がいるから、1年間修業させてあげてほしい。」

私は二つ返事で引き受けた。今度は、よく働く先生だった。

「生命を奪う」行為の意味が、初めはわからなかった。誰の生命を奪うのか? 働かない内科医の生命? それはそうだろう。うつ状態で、放心状態で彼はやってきて、ゆっくりと休養し、再出発していった。それだけなのだろうか?

私たちの病院は、外科系の病院だった。だが時代がどんどん変わっていった。小さな個人病院がリスクを抱えて手術をする時代は終わろうとしていた。内科系の病院に転換していく時だった。気が付くと、彼はたくさんのものを残してくれていた。病院全体が方向転換するきっかけを与えてくれたのだ。あの時、怒りに任せて契約を破棄していれば、私たちの意識の転換も起こらなかっただろう。まさに、私たちにとってもあの時がターニングポイントだったのだ。自分たちの生命を自分で奪おうとしていたことが、初めて分かった。

7.壁の穴

 「人は何のために生きているのだろう?」

私には永遠の課題だった。高校時代世界史の先生がよくカントの話をしてくれた。ドイツ哲学の最高峰である。先生は、どうしてもカントの思想を理解したくて、ドイツ語を学び原書を読んだ。そして、ついにカントの本意が分かった時、うれしくて踊りだしたという。私も『純粋理性批判』にかじりついた。

卒業の直前、先生の部屋を訪ねた。先生は喜んで話してくれた。

「僕は、この世とあの世の間を行き来しているのですよ。」

不思議なことを言って、『プロレゴーメナ』をくれた。だが、カントには到底歯が立たなかった。

外科の研修医時代、1年間谷口雅春の『生命の実相』を読みふけった。本当に悟った人の言葉は深く胸にしみこんでいった。ある日、私の目の前が開けるような感覚にぶつかった。 

「わかったー。」と小躍りしたくなる瞬間だった。

「あなたは、私だ。」宇宙の実相はすべてが一体であることを教えていた。

「山川草木国土悉皆成仏」そうだったのだ。分離など初めからなかったのだ。

夜も更けていた。私は小躍りしながら、寝ている妻の寝床にもぐりこんだ。

「やっと分かったよ。分かったのだよ。今度教えてあげるからね。」

私は、優しい声で妻の耳元にささやいた。

妻は起きていた。

「そうなの。良かったね。どうせいつもあなたが先生で、私は生徒ですよ。」

恐ろしいほど冷たい声だった。妻はくるりと反対を向いてしまった。

なぜかものすごい怒りが私の内側から沸き起こってきた。さっきやっと分かったと思ったことが、一瞬でガラガラと崩れてしまった。

(お前なんか離婚だ。)

心の中で叫んでいた。到底寝ていられなかった。私は腹立たしく布団を跳ねのけ、階段をドスンドスンと言わせながら、階下へ降りて行った。思わず壁を叩いた。すると、手が壁を突き破ってしまった。全然痛みを感じない。

居間に行くと昨日買った小さな折り畳み椅子があった。

(チクショー。)

私は、椅子を床にたたきつけた。あっという間に椅子はバラバラになってしまった。私は椅子を徹底的に解体した。解体しながら、徐々に冷静になっていった。

(あーあ。このごみをどこに捨てるのだい。)

私は、ごみ袋に入れて、庭に置いた。そして、考えた。

 さっき「あなたは私だ」と思ったことが、うそだと分かった。何も分かっていなかったのだ。ただ、自分の思想の方向が変わっただけだ。分析から全体へ。分離から統合へと思考の視点が変わったのだ。それを、分かったと感じただけだった。

 私は、すごすごと寝床へ戻っていった。

 「ごめんね。分かっていないのは僕の方だった。君なしでは生きていられない。」

妻に誤った。

翌朝、洗面所にいると子供たちの声が聞こえた。

「すごかったねぇ」

「こんなところに穴が開いているよ。ほら、指が入っちゃうよ。」

「あれっ、お父さん昨日椅子を買ってきたよね。どこにもないよ。」

「どこ行っちゃったのかねぇ。」

(なんだ、みんなおきていたのか。)

8.見えない宇宙の力

 妻は不思議な人だった。私は、課題にぶつかると一人で思索する。やがてついに分かる時が来る。それを妻に伝えると、即座に妻は理解する。一瞬で理解するのだ。全く不思議だった。そして、二人でやってみる。

 結婚したころ私が興味を抱いていたのは、豊かさだった。本当の豊かさとは、お金をたくさん持っていることではない。お金を貯めこむことでもない。必要な時に、必要なだけあることだ。

「与えれば与えられる。」

「神は7度の70倍にしてあなたに返すだろう。」

私はそれを体験したかった。私は口癖のように妻に言った。

「お金は天から降ってくるのだよ。」

駅で募金をしていれば、必ず小銭を入れた。寄付をできるだけするようにした。ある時、20万円ほど貯まったので、妻にどこでもよいから寄付してねと頼んだ。

妻はためらったそうだ。当時は、そして今も、20万円は大金だった。NHKや日赤で寄付を集めていた。今日行こう。明日行こう。と思ってもなかなか行けなかったそうだ。

私も同じだった。30万円が貯まった。病院のそばの児童施設に寄付したいと思った。最近そこの理事長と知り合って、戦後間もない創立時代の話を聞いたばかりだった。温厚で思慮深い物腰の丁寧な理事長だった。一目で私は惚れてしまった。

机の引き出しの封筒に入れた30万円は、いつまでもそこにあった。月日はどんどん経つのに、私はちっとも行動に移さなかった。

ある日、突然私は追い詰められた。職場でのちょっとした言葉の行き違いなのに、私は窮地に立ってしまった。雨の降る晩だった。どうしてこんなつまらないことに躓くのだろう。思いを巡らせていると、お金のことに気づいた。

ふと、このお金が必要なのだと気づいた。すぐにも必要だった。私は理事長に電話した。

「夜分なのですが、今からお伺いしてもよいですか?」

理事長は何も聞かずに、「どうぞ、お待ちしています。」と答えてくれた。

私は、雨の中を訪ねた。理事長が玄関で待っていてくれた。静かな晩だった。簡単な挨拶をし、とりとめのない会話をした後、私は寄付の申し出をした。理事長は、ありがとうございますと、すぐに受け取ってくれた。わたしはほっとした。私の役割を果たせたのだ。

それは、土曜日の朝だった。

「お父さん、お金がないのですけど。」

妻がにこにこ言った。私は不意を突かれた。

「お金って、通帳にもないの?」

「通帳にもないのです。お財布も空っぽです。」

「分かった。なんとかなるよ。」

(お金は天から降ってくるから、何にも心配しなくていいよ。)

私の口癖だった。宇宙は必ず答えてくれると、確信していた。だが、今日は土曜日だ。どこからお金が降ってくるのだろうか。

車で日赤医療センターに向かった。私は、そこの無給医局員だった。生活費はアルバイトで稼いでいた。週1回バイト先の病院当直をし、月1回土日当直をしていた。生活はそれで何とか成り立っていた。

病院に着くと、廊下で同僚にあった。

「先生、ちょうど良かった。バイト先のお給料、先生の分も預かってきたよ。」

白い封筒を開けると、10万円余り入っていた。

(降ってきたー。)

思わずにやっとした。妻が目をまん丸くするのが見えた。しかし、次は私が目をまん丸くする番だった。

午後になると、外科部長に呼ばれた。

「君ね。今度有給になれるよ。」

まったくあてにしていないことだった。当時この病院の有給医局員になるのは至難の業だった。東大病院から優秀な医師が次々とやってきていた。

「ほんとですかぁ。ありがとうございます。」

思わず声が上ずってしまった。初めていただいた正規のお給料は、40万円だった。

(こんなにもらえるのだ。)

生活が一気に楽になった。

 金曜日の夜、11時ごろだった。病院を出ると土砂降りだった。車で来ればよかったと思ったが、もう遅い。医療センターから渋谷駅に向かうバスはとうに終わっていた。玄関にタクシーは一台もいない。土砂降りの雨の中、正門まで歩いてみた。大通りをタクシーが次々と六本木に向かって走っていく。バブルの時代だった。下りの空車などあるはずがなかった。

 雨宿りをしながら、渋谷駅まで歩いたらずぶぬれだなと思って、たたずんでいた。心の中で、天使に頼んだ。

 (お願い。タクシーを一台お願いします。)

 その瞬間、私の後ろでばたんと車のドアが閉まる音がした。慌てて振り向くと、ちょうどタクシーから人が降りたところだった。駆け寄って、運転手に声をかけた。

 「渋谷駅までよいですか?」

 快く乗せてもらえた。ありえない奇跡だった。

(天使さんありがとう。)

 当時、日赤医療センターの通勤に私は中古のアコードを使っていた。車高が低くてスポーツカーに似ていたので、とても気に入っていた。ところが、朝の通勤時間帯に渋谷の交差点で突然エンストしてしまった。いくらキーを回しても、エンジンがかからなかった。

 突然、運転席の窓をこんこんとたたく人がいた。みると後ろの大型トラックの運転手だった。

 「道路の端に寄せてあげるから、ハンドルを切って。」

 にこにこしながらそう言うと、彼は後ろから私の車を押してくれた。

 「おかしいなぁ。やけに重たいぞ。」

 彼が戻ってきて、車内を覗いた。

 「なーんだ。サイドブレーキがかかっているじゃない。それ外して。」

 私は、慌ててサイドブレーキを緩めた。車は音もなく動いて、道端に止まった。運転手は、いつの間にかいなくなってしまった。

 私は、ほっと溜息をついた。もう一度キーを回すと、エンジンがかかった。私は何事もなかったかのように、職場に着いた。遅刻もしなかった。

 (天使さんありがとう。)

 医学部6年生の時だった。私はやっと運転免許を取った。

「免許証がなくて、女の子にもてるのは君くらいだね。」と友人に冷やかされていた。

国家試験前だったが、気晴らしに遠出がしたかった。兄の恐ろしく古い中古のカローラを借りて、夜の道を北に走らせた。行けるところまで行こうと思った。まだ行ったことのないところへ行きたかった。高崎を過ぎたころだった。もう真夜中をとうに回っている。国道なのにやけに狭い道だった。対向車がしきりにパッシングをしていく。1台だけではない。何台もすれ違いざまにパッシングするのだ。

(おかしいなぁ。)さすがの私も、変だと思った。

路肩へ車を止めた瞬間、ボンネットからもうもうと水蒸気が上がった。オーバーヒートだ。授業では習っていたが、予想以上にすごい白煙だった。

「こういう時は、すぐにボンネットを開けてはいけない。やけどをするから。」それだけは耳に残っていた。煙が収まったころ、ホースを持ったおじさんがやってきた。

「オーバーヒートだね。こういう時は、大体壊れる場所が決まっているのだよ。」にこにこしながら嬉しそうにボンネットを開けて、点検を始めた。

「やっぱりこのホースだ。」おじさんは、さっさと修理してくれた。

「これで大丈夫だよ。しばらく運転できるけど、あとで修理に出したほうがいいよ。」

おじさんは、元来た方へ戻っていった。私はタクシー営業所の真ん前で故障したのだった。おじさんがどこから現れたのか、合点がいった。

私はおじさんにお礼を言うと、車の向きを変えて自宅に向かった。明け方、無事自宅に着いた。

(ここにも天使がいた。)

9.重荷を負うている者

 病院経営は、働いても働いても好転しなかった。外来、入院患者、救急車と引きも切らずに仕事が続いていた。一体この苦労はいつ終わるのだろうか。後継者がいないわけでもなかったが、彼は全く病院に興味を示さなかった。何年働いても、状況は何も変わらなかった。ついに私は疲れ果てた。倒れるしかここから抜け出る道がないように思われた。自分でも危ないと思った。

 私は妻に頼んで、一緒に旅行に出かけることにした。病院から離れなければ、危ないと思った。土曜日の午後3時、妻と東京駅で待ち合わせした。軽井沢に行こう。仕事を忘れるのだ。

 新幹線に乗るとあっという間に軽井沢に着いた。タクシーで塩沢温泉に向かった。突然フロントガラス越しに巨大な白いピラミッドが現れた。あれは何だ。私は度肝を抜かれた。通り過ぎた車から後ろを振り返ると、こぶしの巨木だった。満開のこぶしの白い花が、巨大なピラミッドに見えたのだ。

 塩沢温泉は、古い旅館だった。堀辰雄が逗留したことで有名のようだ。温泉につかり、夕食に舌鼓を打った。仕事を忘れて寛ぐことができた。明日はバードウォッチングに行こう。

部屋は、ログハウスのような丸太が露出した作りだった。天井が高くて、古いがゆったりとした広い部屋だった。

 夜、夢を見た。婦長が出てきて、「急患だから早く起きて。」と言う。

僕は、「休暇中だから良いのだ。」と言ったが、「急患の後は入院患者が待っていますから。」と僕を揺さぶり起こす。

「しょうがないなぁ。」僕は白衣を着て外来に向かって歩いて行こうとする。

(待てよ。軽井沢に来てるのじゃなかったっけ。)

目を開けると、天井の丸太が見えた。

(やっぱりそうだ。ここは軽井沢だ。)

休暇に来ても、病院が追っかけてきた。

(休暇なんか、意味ないじゃないか。)がっかりした。

翌朝は着替えて、6時に玄関前に向かった。インストラクターが、大きな看板を持って立っていた。『まつ』たったそれだけの文字が、書かれていた。

「また、待つのか?」

「あなたの一番嫌いな言葉ね。」妻が言った。図星だった。

参加者が集まると、インストラクターが説明を始めた。

「まつは、木の松ではありません。待つです。小鳥は追ったら見つけることはできません。じっと待っていると、彼らの方からやってくるのです。それが、バードウォッチングのコツです。」

一体いつまで待ったら良いのか。先の見えない状況にいらだっていた。

 その頃外来で事件が起こった。若くおとなしい女性が、首の痛みを訴えて外来にやってきた。交通事故だという。聞けば何カ所かの整形外科を受診していた。とりあえずレントゲンを撮ってみると、後縦靭帯骨化症の疑いがあった。交通事故とは関係がないと説明すると、おとなしく納得して帰っていった。

 数日後、彼女がまた外来にやってきた。交通事故として受診しようとしていたので、通りかかった私は事務職員に交通事故のカルテではなく、健康保険のカルテを使うように指示した。すると突然太った人相の悪い男が目の前に出てきた。

 「交通事故ではないとはどういう事だ。」ものすごい剣幕だった。彼女の陰に男がいたのだ。男は、受付で大声を出し、なかなか帰らなかった。後で分かったが、交通事故の診断書が欲しくて病院を渡り歩いていたのだ。うちで8カ所目だった。

 それから連日男がやってきて、受付で大声をあげて嫌がらせをした。外来患者は怯えてしまった。警察官も立ち会ってくれたが、大声を出すだけで暴力を振るわないので、手が出せなかった。あまりのしつこさにほとほと困り果てた。

 いったいなぜこんなことが起きるのだろうか? 何のために起きているのだろうか? 私は自問した。すると思い当たることがあった。

 2,3週間前のことである。義母が北海道旅行に出かけたお土産に、立派ないくらの醤油漬けを買ってきてくれた。驚くほど粒が大きく、プチプチしていた。病院の昼食にも出すと非常勤の先生が、最近偽物が出回っているのをテレビで見たと言いだした。

「熱いお湯に入れてみれば、本物か偽物かわかりますよ。」と言ってやってみた。

「どうも偽物みたいですね。」

「えっえ、全然わからないですね。」私は、何も気づかずにパクパクと醤油漬けを食べた。

ところが、その場に居合わせた義母は衝撃を受けていた。たくさん買って親戚にも送った醤油漬けが偽物と言われてしまったのだ。製造会社に電話をし、本物だと言う返信まで要求した。丁寧な手紙が届いたが、それでも気が済まない様子だった。

何も気づかずに、みんなではしゃいでいたことを痛く反省した。これは謝っておかなくてはいけないと気づいた。

私は早速義母のところへ行った。

「お母さんの気持ちに気づかずに、みんなで偽物だなどと言ってしまって本当に申し訳ありませんでした。」

私は素直に謝ることができた。

義母は、「もう済んだことだからよいのよ。私もこだわり過ぎていたのかもしれない。」と言ってくれた。私は、気づかせてもらって良かったと思った。

翌日、あれほどしつこかった男がこなかった。3日たっても、1週間たっても男は現れなかった。別に男を待っているわけではなかったが、それっきり男は消えてしまった。

自分の心と現象とが関連していることは知っていた。しかし、これほど深く関連しているとは驚きだった。

10.天使が降りてきた

 私の精神的疲労は極限まで来ていた。何回か週末に軽井沢に出かけたが、緊張は解けなかった。車で通勤するのだが、病院が近づくにつれてため息が増え、身体が緊張するのが分かった。はるか遠くで鳴る救急車のサイレンが誰よりも早く聞こえた。そして、サイレンが遠のくとほっとした。

 ある日、外来がすいた隙を見つけて居間で休んでいた。そこへ、義母がカルテを持ってやってきた。処置に関する簡単な質問だった。義母は皮膚科医だが外科の処置もこなしてくれた。私はソファから起き上がり、返事をした。自分が不機嫌になるのを抑えられなかった。優しい義母に何という冷たい返事だろう。

 いよいよ危ないと思った。何かが起こらないはずがなかった。けれども、私は自分の仕事を続けるしかなかった。

 義母がお墓で転んでけがをした。外来に突然連絡が入った。看護師が菩提寺に迎えに行きましょうかと言ってきた。どうしようと相談しているうちに、義母が診察室に連れてこられた。頭をざっくりと切って出血していた。

 「ごめんなさい。段差で躓いてしまって。」迷惑をかけたと、皆のことを案じている。

 傷の処置をしながら、私の性で怪我をさせてしまったと思った。優しい義母、いつも私をかばってくれる義母だった。私は申し訳なさでいっぱいになった。

 私たちは小病院としては珍しく第三者機能評価を取得した。医療安全、経営効率などあらゆる側面で見直したかった。しかし、小病院が生き残る道はどんどん狭められていった。

 厚労省の思惑通り、病院が次々と閉院し始めた。私たちのような50床前後の病院だけではない。200床もある病院も閉院していった。締め付けはどんどんひどくなった。病院の経営は、医師と看護師の数で評価されていた。ところが、優秀な医師を確保できないだけではない、看護師の数すら確保できない時代だった。

 広告費をいくらつぎ込んでも応募の電話1本鳴らなかった。そして、医療崩壊が始まった。まず妊婦が入院できる病院がなくなった。次に子供たちが入院できる病院がなくなった。救急車が現場に到着しても、搬送先が見つからずに1時間も立ち往生することが当たり前になった。救急医療から崩壊し始めた。

 厚労省は、入院患者の在院日数を減らすように病院を締め上げた。当時平均在院日数は28日だった。それを14日になるように誘導した。単純に計算しても、必要なベッド数は半分になる。マスメディアが喧しく医療崩壊を取り上げ始めた。

 ついに消防庁から病院に電話がかかってきた。

 「お宅の病院は、救急受入数が少なすぎます。もっと救急車を受け入れてください。」

 お互いに事情は分かっていても、マスメディアは責めるのが仕事だ。私たちは、無理に無理を重ねた。皆緊張が極度に達して、看護師も限界だった。研修医制度が変わり、当てにしていた当直医も来なくなる。私は、事故が起きる前に病院を止めたかった。

そして、巨大な銅鑼の音が鳴り響いた。

 夕方大学病院から転院依頼があった。意識不明、住所不明の高齢者だった。大学病院も空床確保に必死だった。

 「全身状態は安定しております。補液して、経過観察だけで良いですから、転院させてください。」

 「徘徊したりしませんよね。」

 「大丈夫だと思います。」

 何とも情けないやり取りだった。

 私たちは、もし徘徊してもすぐに気づくように3人部屋の真ん中のベッドに入院させた。看護師にも頻回に様子を見るように指示した。当直の先生にも頼んで帰宅した。

不安は的中した。夜中に、当直医から電話がかかってきた。

「ものすごい音がしました。3階から誰か飛び降りたようです。隣のプレハブの間に落ちたみたいです。」

「先生、見に行ってください。」

「恐ろしくて、見に行けません。」

「そんなこと言わずに、お願いだから見に行ってください。」

結局、救急隊と警察が来た。そして、警察に引き取られていった。

それからしばらくして、内科医の叔父が言った。

「そろそろ閉めましょうか。」

「そうですね。限界でしょうか。」

終わりはあっけなかった。反対する人は誰もいなかった。私は義母に対して申し訳なかった。昭和34年に創立し、病院と共に生きてきた義母だった。43年間の思い出が詰まっている場所だ。

昼下がり、二人で居間のソファでくつろいでいる時だった。

義母が言った。

「長い間ご苦労様。ありがとう。これからは、診療所にして、みんなで幸せになりましょう。」

義母の美しい顔をカーテン越しの光が照らしていた。ロマンスグレーの髪がきらきらと輝いた。涙はなかった。ただ気遣ってくれる優しい愛情だけが部屋を満たしていた。

(天使が降りてきた。)私にはそう感じられた。時間が止まり、まるで絵画のように静かで美しい光景だった。

11.光一元の世界

 それからほんとうに幸せな日々が続いて既に20年近い月日が経っている。私には、家のカルマが終わったように見える。義父の子供4人はすべて女の子、叔父の子供4人はすべて男の子だった。二つの家が病院を巡って協力し合っていた。同時に深いカルマも背負っていた。私は火中の栗を拾う役割だったが、栗を拾いたくて加わったのだ。私自身のカルマの約束を果たすために。

シェークスピアは、それを『ロミオとジュリエット』で描いている。個人のカルマがあるように、集合意識としてのカルマもあるのだ。

 苦節10年というが、人間にとって10年経てばどんな状況も変わってくるということだ。どんな忍耐も10年以上続くことはない。そこに大きな希望がある。

 天使には、カルマは存在しない。人間だけがカルマのドラマに溺れていく。だが、ドラマは冒険の始まりでもある。神様はドラマを味わいたくて人間を作ったのだ。人間という果てしなく善にもなれるが、果てしなく悪にもなれる存在として。そして人間を助け支える存在として天使がいる。その天使でさえも、ドラマを演じたくて人間として生まれてくる。それほど人間には面白さがあるのだ。

 今、人類歴史の反転が始まっている。2017年から2021年がその反転の分別期間だ。2022年から2028年まで7年間の忍耐の期間が始まろうとしている。多くの人が苦難を味わうだろう。病疫や天変地異や経済的困窮があるかも知れない。だがすでに夜明けは始まっている。夜明けの黎明の中で、あなたが光を放つのだ。いつ果てるとも知れない暗闇での彷徨ではない。2029年燦然と光明を放つ精霊の降臨までの最後の7年間である。そして、2038年栄光のアセンションを迎える。その時までに人類は霊能力を開花させ、途方もない宇宙文明が始まっているだろう。

 人類の集合意識は、20世紀末から現在まで次々と並行宇宙をジャンプして上昇している。それは別の見方をすれば、あなたが並行宇宙をジャンプしているということだ。人類滅亡のシナリオから、様々な多次元的並行宇宙のシナリオを通して、アセンションのシナリオへとジャンプし続けている。こうして時を加速させ、さらに素晴らしいアセンションのシナリオへとあなたは現実を変えている。

 「1日怠れば、1日遠ざかり、1年怠れば、1年遠ざかる。」と谷口雅春は言った。まさにその貴重な瞬間に私たちは立っている。一歩一歩、この階梯を上り続けよう。その足取りは、光一元の世界へとあなたをいざなうだろう。

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統合の魔術

投稿日:2021/07/14

1.ワクチンは効くのか?

 中野区に開業して30年、いつの間にか毎年のようにインフルエンザワクチンを接種するようになった。ところが、ワクチン接種をしたにもかかわらず、感染する人が後を絶たなかった。国は、ワクチンは感染を予防するものではない、重症化を防ぐものだと説明していた。毎年医師会で開かれるワクチン説明会では、前年度のワクチンの有効性に関する報告があった。専門家は、効果は出ているというが、多くの医師はたいして効果があると実感できなかった。

 そこで、ワクチンの本当の効果を調べてみた。驚くべきことに、インフルエンザワクチンに効果があるといる科学的データはなかった。感染を予防する効果もなければ、重症化を阻止する効果さえ実証できていなかった。

かなり以前から、ワクチンの防腐剤に水銀が使われていることが問題視されてきた。欧米では、自閉症の増加の原因としてワクチンの水銀が疑われている。専門家の調査で、関連性はないと否定されたが、信じない人も多かった。

 さらに不活化ワクチンの効果を高めるために混入されているアジュバントの危険性は、ほとんど研究されていない。アジュバントの出現によってはじめて不活化ワクチンの有効性が高まったが、同時に人間の免疫をかく乱する作用があることが実証されている。ワクチン専門家の中には、アジュバントのリスクの故にインフルエンザワクチンを中止するように勧告している人もいる。

 私自身の結論として、インフルエンザワクチンはやめたほうが良いと考えている。多くの生ワクチンは、確かに有効である。はしかや風疹のワクチン接種は、一生に2回に過ぎない。ところが、インフルエンザワクチンは、毎年接種するのだ。これだけ危険性があって、効果のないものを毎年接種することで、どれだけ人々の免疫がかく乱されているか、計り知れない悪影響がある。

 私は事務長と相談して、インフルエンザワクチンを接種しないことを決めた。もちろんその発端は、並木先生の講演でインフルエンザワクチンが効かないことが何度も取り上げられたことにある。

 診療所では、毎年700人近い人にインフルエンザワクチンを接種していた。それを突然中止することにしたのだ。どんな反発があるだろうか? 患者さんになんと説明したらよいだろうか? 区役所には、医師会には、どう説明したらよいのだろうか? ワクチン接種は10月から始まるが、8月に医師会からエントリーの応募用紙がFAXされる。眼科医や皮膚科医で応募しない診療所もたくさんある。しかし、地域の内科医でワクチン接種をしない診療所など皆無だった。

 まだ一言も発する前に、私の中で恐怖感が津波のように襲いかかってきた。胃の腑をぎゅっと握られるような恐怖感だった。同時に、インフルエンザワクチンが地域医療を支配する管理システムになっていることを実感した。医師会にはワクチンを推進する専門家が講演にきて、いかにワクチン接種が地域医療に重要かを説明した。権威ある専門家の言葉は当たり前のように受け入れられた。ワクチン接種を行えば、国から報酬が支給される。マスメディアはワクチンの大切さを人々に啓もうする。こうして巨大なマインドコントロールシステムが完成する。もちろん十分な科学的根拠があり、科学的実績があれば、それは素晴らしく人類に貢献するシステムだった。ところが、しばしばこのシステムが腐食していることが露呈するのだ。私は、その腐食を何度も目撃することになった。

現実は、心の反映である。それは私とって十分すぎる事実だった。

「外には何も起こっていないのですよ。心の中のあなたの体感があるだけです。」並木先生の言うように、まさにその通りなのだ。にもかかわらず浮かび上がる恐怖感は、私の中に巨大な制限があることを表していた。もし制限がなければ、どんな困難があっても恐れる感情は生まれない。私は何を恐れているのだろうか?

同じ医師会の同僚から軽蔑されるのではないか。根拠のない迷信を信じて迂闊な行動に走っているのではないか。地域社会の中で、変わり者のレッテルを張られるのではないか。それらの不安が恐怖となって私を閉じ込めるのだった。制限とは、自分自身に対する無価値感だった。劣等感だった。低い自己評価だった。

私は、それらを統合した。何度も何度も統合して、自分の中の制限を外した。その恐怖感は、今回の人生の経験からきているかもしれない。あるいは、過去世の経験に基づいているかもしれない。胸にぬめりとした恐怖感という塊があった。それを巨大な鉄の塊にイメージして、取り出しては外した。はじめのうちは、外れたという実感がなかった。しかし、繰り返すうちにすっと消える瞬間があった。ところが、翌日にはもうそこに戻っていた。胸に鉄の重みを感ずるのだ。

「この地域で医療をやっていく以上、ワクチン接種は避けて通れないよ。」私は、妻に弱音を吐いた。妻も心配していた。診療所の経営からも、ワクチン接種から離脱する経済的打撃は決して無視できない額だった。医療行政の中に、自分がからめとられていることを実感した。いっそ、保険診療をやめてしまおうかとも思ったが、それこそ墓穴を掘る選択だった。

私は、摩擦を最小限にする対策を考えた。

「当院では、インフルエンザ予防接種は取り扱っておりません。」簡潔な文章を院内に掲示することにした。

通院する患者でワクチン接種を希望する人は、近所の診療所を紹介できる。ところが、在宅患者は歩けない。在宅患者の家族こそ、強くワクチンを希望していた。そこで、これらの患者には無料で接種することにした。

私たちは腹をくくった。職員向け説明会を開催し、事務長がなぜワクチン接種を中止するのか説明した。効果がなく、副作用があるというたくさんのデータがあった。一方、効果があって、副作用がないというデータはなかった。事実、前年は職員全員接種したにもかかわらず、6人が感染していた。次第に私の中の恐怖感がなくなっていった。職員の中に反発する人はいなかった。職員のワクチン接種は、例年通り希望者に無料で実施することにした。

そして、10月1日を迎えた。驚くべきことに、反発する患者は一人もいなかった。ほかの診療所まで出かけなければならず、不便になったという声は届いたが、なぜ中止したのかと詰問する人は一人もいなかった。中には、「先生のお考えを教えてください。私も接種しないことにします。」「やっぱりワクチンは効かないのですね。」と小声で打ち明ける人が何人もいた。

結局恐れていたことは何も起こらなかった。行政や医師会からの反発もなかった。恐怖感は私の杞憂だったのだ。統合の素晴らしさを実感した瞬間だった。

2.グルメの神様

 私にはオーラが見えたり声が聞こえたりするような華やかな霊的能力とは縁がなかった。しかし、自分の求めるものを嗅ぎ分ける力は優れていた。知っているという能力だ。霊知ともいわれるが、本人が中々気づかない能力だ。

 並木先生の香港リトリートに参加した時だった。夕方の自由時間に、参加者4人で食事に行くことになった。中に香港に毎月のように来ている通がいた。

 「素敵なレストランがあるから、案内するわ。」

 彼女に連れられて、ペニンシュラホテルの横を通り、立体交差の脇をすり抜けて夜の街を歩いた。ところが、レストランと思しき一角は全く明かりのない暗がりになっていた。一区画全体が建て替え中であった。その時、「僕にはグルメの神様がついているから、僕についておいで。」私が突拍子もないことを言った。

 左手は、大きなバスターミナル。右手は工事区画。レストラン街を思わせる灯はどこにもなかった。私は、バスターミナルの左手に向かって歩き出した。リトリートで興奮していた私たちは、ぺちゃくちゃおしゃべりをしながら歩いた。すると、レストランが散在する一角に出た。私の目に、日本食レストランが飛び込んできた。

 「香港まで来て、和食じゃね。もうちょっと探そう。」

 私たちは、ぐるぐる歩き回ってついにオーガニックレストランを見つけた。ショウケースにはおいしそうな野菜たちが並べられたビュッフェ形式のレストランだった。そのレストランに決めて、受付に並んだ。ところが、「生憎、満席です。」と丁寧に断られてしまった。散々歩き回った私たちは、がっかりして、どっと疲れが出た。

 「さっきの日本食店に行きましょう。」私が皆を案内した。

 店に入ると混んでいたが、右手のテーブルが空いていた。どっかりと4人が座り込み、メニューを見ると美味しそうな海鮮料理が美しく並んでいるではないか。刺身の盛り合わせの何と豪華なこと。寿司もあれば、日本酒もあった。店員が皆日本人に見えて、親近感があふれた。

 ところが、「刺身の盛り合わせと海鮮丼と、、、」日本語で注文を始めると、全然通じなかった。番号で言ってくださいと身振りで伝えてくる。料理は、すぐに出てきた。刺身の盛り合わせの豪華なことにびっくりした。トロやエビ、ウニが惜しげもなく盛りつけられている。つやつやした輝きが新鮮さを物語っていた。

 「ゆきちゃんは、やっぱりグルメの神様がついてるわねぇ。」皆に褒められた。

 その日から、私はレストランを探すとき、グルメの神様がついていると言うことにした。不思議とどんな状況でも美味しいレストランを発見した。いつも、神様は裏切ることがなかった。

3.直観力

 最近直観力が鋭くなってきて、自分でも驚くことが続いた。

 ある日方位磁石が頭に浮かんだ。コンパスは買うと意外と高かったなと、以前のことを思い出した。西堀貞夫先生の作った免疫音響椅子のことだ。2年ほど前、長男である事務長が「素晴らしい椅子があるのだけど、座ってみないか?」と誘いに来た。低音の振動に体を揺さぶられているだけで、がんが治ったり、認知症が良くなったりする椅子があるという。

 シャスティーナの仲間に相談すると、知っている人も多く、既に何度も座ったことがある人もいた。彼女は乳がんの全身転移を起こしていたが、外見は健康そのものだった。西堀先生の展示場に足を運び、一時は自分用に購入しようとすら思ったそうだ。

 妻と長男と3人で五反田の展示場に足を運んだ。小太りの話好きな好々爺だったが、80歳とは思えない程溌剌としていた。特許を2000件持っており、資産は5兆円。飛びぬけた天才だった。その彼が10年間の心血を注いで作った椅子は、日本では評価されていなかった。しかし、倍音を生み出す超重音は、全身を骨の髄から震わせ心地よい陶酔感を味わわせてくれた。なんと私たちは、3時間もその椅子に座っていたのだ。

 さらに驚くべきことは、机の上の方位磁石だった。並べた磁石が好き勝手な方向に向いている。ゼロ磁場になると、磁場が狂うのだと言う。磁力線の流れさえもまったく無視したかのように好き勝手な方向に動く針にはまさに度肝を抜かれる。私は、思わず机の下に細工があるのではないかと、覗いてしまった。

 西堀先生も、ゼロ磁場がどうしてできるのか説明できないとのことだった。さらに不思議なことは、この椅子を数か月間使い続けないと、ゼロ磁場はできない。しかも、椅子の周りのどこにできるかは、誰もわからないと言う。

 日本の中央を貫く中央構造線、フォッサマグナは、巨大なプレート同士がぶつかりあい、せめぎ合っている場所である。この場所にゼロ磁場が形成される。だから古来崇高な神社がこの構造線の真上に存在している。東から、鹿島神宮、氷川神社、諏訪大社、豊川稲荷、伊勢神宮、天河神社、高野山、淡路島、大剣神社、石鎚神社、幣立神宮。これら場所では磁石が全く方位を指さなくなる。同じ現象が、椅子の周りで起きているのだ。

 診療所に音響免疫椅子を設置したのは、2年前だった。ところが、コロナ騒ぎもあってほとんど稼働することがなかった。最近になって事務長が毎日1時間椅子に座るようになった。すると、体温が0.2度あがった。妻が1時間座ると0.5度上がった。

「そろそろゼロ磁場ができるころではないかな。」

私が質問すると、「いやいや毎日数時間座っても、3か月はかかるでしょう。」アドバイザーの説明だった。

 いつどこにできるかわからないゼロ磁場のことが急に気になった。事務長に、「磁石をたくさん買って、どこにゼロ磁場ができてくるか写真を撮ってみたら?」と誘いをかけた。

すると、「どこにできるかわからないものをどうやって捉えるのか。」と気乗りがしない様子だった。

 「もし、ゼロ磁場が形成される様子を写真に撮れたら、未だ誰も見たことがない写真になるよね。どこにできるかわからないけど、椅子の上にできると意図したら、できる可能性はあるよね。やみくもに調べるのは大変だけど、椅子の上とか、ゼロ磁場のできてほしい場所を調べ続けたら、やっぱりそこにできるのじゃないの。」私は、ずいぶんと固執した。

 すると、事務長が椅子の周りのゼロ磁場を調べてくれた。何と既にできかかっているではないか。アドバイザーの方は、3か月はかかると言っていたのに、稼働させてわずか1か月で、椅子の後ろの磁場が揺れだしていた。

私たちは、慌てて方位磁石を6個購入することにした。ゼロ磁場がどんなふうに現れ、どんな風に成長していくのか。未だ誰も見たことのない現象だった。十字に並べた方位磁石が勝手な方向を指し示す現象は、誰でも度肝を抜かれる。ゼロ磁場は、徐々に成長すると言う。いったいどんな風に成長するのだろうか。

 ふと頭に浮かんだ磁石が、こんな展開をするとは驚きだった。

4.インスピレーション

 インスピレーションは突然やってくる。やってきた時、不思議と何をつかんだのか分からない。内容が瞬時に把握できる時もあれば、ゆっくりと展開していくこともある。身体には何かをつかんだという感覚だけが残っている。

 令和元年5月の日曜日、妻と私は京都の下鴨神社を訪ねた。参道を歩いていくと、右手に道が分かれ、池のほとりに瀬織津姫の神社があるはずだった。広い境内を探したが、それらしい景色はなかった。参道のわきには大きな案内所がある。御朱印受付と書かれている。

「瀬織津姫神社はどこですか。」係の男性に尋ねると、また来たかといった風情で苦笑いをしながら、丁寧に説明してくれた。

 参道を右手に回ると、大きな人工の池があった。池というよりもじゃぶじゃぶ池のイメージで浅く水が張ってあった。水面には和紙で作られた球体がいくつも浮かんでいる。何かのアート展示なのだろう。池の右端に小さな太鼓橋があり、その先に小さな祠があった。広大な神社の中に祭られた小さな祠だった。これでは見つからない訳だ。私たちはゆっくりと参拝した。そう、三礼、三拍手をした。

 帰りの新幹線の中で、私はトランプ大統領のことを考えていた。令和元年の頃は、まだ人々はとんでもない大統領、アメリカの恥などと思いこんでいた。平成29年1月、大統領就任直後に、トランプはシリアに弾道ミサイルを撃ち込んだ。メキシコの国境封鎖、国境の壁も盛んにそしられていた。

 私はとんでもない大統領が現れたと思った。ところが、その後奇妙なことに気づいた。世界中で戦争がなくなったのだ。シリアやトルコで凶悪なテロを繰り返していたISがみるみる力を失っていった。オバマ大統領の時代には、日本人も何人も捕らえられ、残虐に処刑された。世界中でテロが発生し、フランスやスペインだけでなくアフリカの国々でもテロ事件が続いていた。北朝鮮の金正恩は、核実験とミサイル発射を繰り返して世界の耳目を集めていた。ウクライナでも、中東でも常に戦争が続いていた。それがほとんど皆無となったのだ。

 トランプ大統領は打たれ強かった。メディアや世界中からバッシングを受けながら、どんどん力を増し政策を実現していった。極悪非道な面相をしながら、世界に平和を実現していた。トランプ大統領の真の目的は何かと自問した。するとインスピレーションが降りてきた。

第1は、もちろん戦争をなくすことだった。アメリカや欧州には影の政府と呼ばれる権力機構が存在している。彼らは闇の権力を駆使して、戦争を継続し富を一部の人々に集約させている。人類は第2次世界大戦以降、戦争のない平和な世界を渇望した。だが現実は、東西冷戦が構造化され、ソ連邦崩壊後はテロとの戦いが構造化されている。人類は常に悲惨な戦争を続けているのだ。

欧米の諜報機関が構造的な戦争の元凶となっていることは暴露されている。エドワード・スノーデンやジュリアン・アサンジの献身的な活動にもかかわらず戦争は終わらなかった。それがどうだろう。トランプ大統領は見事に戦争を抹消したのだ。今までのように平和主義を掲げるのではなく、好戦的態度を派手に演出しながら戦争を終結させたのだ。戦争がなくなってみると、世界中の戦争をアメリカが起こしていたことがはっきりした。もともとアメリカが加担しなければ戦争は起きなかったのだ。

第2は、金融システムの再構築だ。全人口のわずか1%の人々が、世界の富の82%を独占している。ある意味で99%の人々は、経済的奴隷だ。国家も裏社会も、誰も知りえない膨大な裏金を使っている。

どうしてこんな世界になっているのか。その最大の原因は、お金に名前がついていないことだ。もしお金に所有者の名前がついていたら、今のように非合法的で不正な金を動かすことはできない。ビットコインの出現によって、たった1円に至るまでお金に名前を付けることができるようになった。

経済の決算システムはデジタル通貨に向かっている。トランプ大統領がこの決算システム構築に成功したら、世界から裏金が消滅する。それは取りも直さずありとあらゆる裏社会の崩壊を意味していた。

第3は、情報開示である。ケネディ大統領はUFO情報を開示しようとして暗殺されたと言われている。米軍にはリバースエンジニアリングと呼ばれる宇宙人から獲得した技術が大量に蓄積されている。既にフリーエネルギーの技術もできあがっていると言う。こうした情報は全く闇に隠され、人類の繁栄に貢献していない。トランプ大統領が情報開示に成功するためには、上下議会の半数以上を掌握する必要があった。その時大統領は、実際にゴールに近づいていた。

私は、瀬織津姫からもたらされたインスピレーションを、並木先生にぶつけてみた。すると、先生はくるっと一回転して言った。

「ぜーんぶその通り。」

私はしゃべることに夢中で、並木先生の顔を見ていなかった。隣にいた友人が、私がしゃべっている間、飛び出るほどおっきな目をして私を凝視していたと教えてくれた。

5.自己ヒーリング

 統合は自分の中の制限、思い込み、常識、枠組みを外していく作業だ。制限を外すごとに自由になっていく自分を感じた。一方で心の奥底に孤独、虚無感を抱えていた。子供時代からの深い孤独感は、幸せな結婚、愛する妻、かわいい子供たち、優しい親戚、楽しい人間関係によって、以前よりはるかに薄くなっていた。しかし、心の奥底に残されたどうにもならない虚無感は拭えなかった。何かが足りない。イエスはその何かを、「永遠にくめども尽きない生命の泉」と表現した。疲れた時、一人になった時、ひょっこりと虚無感が顔を出した。年を取るにつれて、身体の奥底から湧き上がる情熱が減っていった。相対的に、虚無感が強くなっていった。

 日赤医療センター研修中に、外科部長とよくおしゃべりをした。

患者さんと話しているとき、部長は言った。「私も60歳になって、孤独というものがどういうものかわかってきました。」

すると、「60の孤独なんて、80歳の孤独に比べたら、子供だましのようなものよ。」と言い返されて、ぎゃふんとなったと言う。

まあ、孤独の自慢話では、希望は生まれない。

 香厳和尚のように、跳ねた小石がカーンと竹を打つ響きによって忽然と悟りたかった。ゴーピ・クリシュナやキュブラー・ロスのように、湧き上がるクンダリニーエネルギーで宇宙まで拡大したかった。しかし、それは見果てぬ夢だった。

やがてその虚無感は、神との分離のためだと気づくようになった。すべての人に根源的に存在する孤独なのだ。実存主義は、それを人間の本質ととらえた。しかし、私は耐えられなかった。どこかに道があるはずだ。

 ワークショップに参加するたびに、並木先生は次から次へと新しいワークを紹介してくれた。その中で、私が痛く気に入ったワークがあった。300スリスリだ。手のひらを300回こすり合わせていると、手のひらの中央にある労宮というつぼが活性化する。こうして温かくなった手のひらを胸に当てて、瞑想するのだ。たったこれだけのことだったが、私のハートは限りなく癒されていった。

来る日も来る日も、私は300スリスリを続けた。まるで乾いた砂漠に水が染みこむように、ハートが癒された。それは、顔に深く刻まれた皺が徐々に薄くなり、やがて消えていくような作業だった。あっという間に2年半という月日が流れていた。

そしてついに私にも生命の泉とつながる日がやってきた。コロナ肺炎にり患した後だった。心が地球の奥底とつながる感覚が生まれた。何かしらわからないエネルギーが心の底からふつふつと湧いてきた。それは不思議な感覚だった。どんなに疲れていても、エネルギーは放射し続けていた。虚無感はかき消され、孤独はなくなった。何かにいつも繋がっていて癒されている感覚だった。

そして、300スリスリをすると瞬時に全身にエネルギーが復活した。身体の芯から暖かく感じられるのだ。特に背中が温かかった。そして、頭上から光の柱が下りてきた。天井を見上げるとまぶしいほどの光を感じる。頭頂部にはいつも注がれるエネルギーの柱が感じられた。劇的に押し寄せる至福とは違って、穏やかな優しいエネルギーだった。汲めども尽きぬ永遠の生命の泉、まさにその通りだった。患者と話をしていても、小躍りしたくなるほど声が弾んだ。

6.カルマ・神の罠

 人は皆カルマを背負って生まれてくる。カルマのない人などいない。カルマがなければ、この地上に生まれてくる必要もない。カルマとはその人の人生の課題だ。私はそれを神の罠と呼んだ。なぜなら、ほとんどの人が困難で苦痛に満ちたカルマを背負っているからだ。私のカルマは、貧乏と怪我や病気、孤独と家族の離散だった。

医学部5年生の頃が、精神的にどん底だった。私の眼には浮浪者さえうらやましく感じられた。孤独が石板となって背中に張り付いていた。それは、触れば触れることできると思われるほどに実在していた。人は何のために生きているのだろうか?どうせ死んで消えてなくなってしまうのなら、人生に何の意味があるのだろうか?神は信じられなかった。死後の世界など、想像することもできなかった。死ねば消えるのだと、信じていた。それが常識だと思っていた。

クラスでは最低の成績だった。授業がつらくて、ついに出席することもできなくなった。喫茶店で時間をつぶしていると、同じような人が大勢いることに気づいた。皆、孤独を一身に背負っていた。

 ついに私は決心した。担任教授に会いに行った。一年留年してやり直したいと申し出た。教授は詳しい事情は聞かなかった。しかし、まったくの落ちこぼれの私のことをよく知っていた。授業にもあまり出なかった私のことを、どうして知っているのだろうか不思議だった。けれどもその決心が私を救った。私は、3か月間毎日図書館に通い勉強した。最初は全く分からなかった医学部の授業の全貌が見えてきた。得意な科目が増えていった。1年留年したが、それからはいつも前の席で授業を聞き、よく質問をした。卒業すると楽しい研修医時代が始まった。私にはいつも勉強する習慣がついていたので、よく学び、よく遊んだ時期だった。そして、突然にカルマへの挑戦を始めた。もう一度家族を作ろうと決心したのだ。いや、その決心は心の表面には浮かび上がらなかった。心の奥底で何かが決心したのだ。

 恩師の紹介で妻に出会った。結婚前に妻の祖母の法事があった。12人の義父母、叔父叔母となる人が並んでいた。私は嬉しかった。心の中で、きっとこの人たちを看取るようになるだろうと思った。その後、実際5人の方を看取らせていただいた。

 義父は個人病院の創業者だった。子供4人に恵まれたが、全員女の子だった。跡取りのいない義父は目標を失ったかのように病院よりも地区医師会で活躍していた。豪放磊落、陸軍士官学校卒業の大人物だった。私は一目で義父に惚れた。この人のためなら、何でもしようと思った。実際私は人生の方向を変えて、この病院の再建に心血を注いだ。妻を愛し、授かった4人の子供たちを愛し、親戚を大切にした。そして大家族が出来上がった。

 私には不思議なことがあった。自分の人生を振り返った時に、あるところで途切れているのだ。その時の前後で、まったく別の人間になっているとしか思えなかった。学生時代の私は、孤独で無気力、神を信じることができず、人生の意味すら分からなかった。クリスチャンや宗教家ともたくさんの対話をした。私は、神を知っている人に一人も出会わなかった。唯一、湯浅八郎だけが心底神を知っていた。彼に会ったとき、もう80歳は過ぎているかと思われる高齢だった。ヒマラヤのトレッキングに行ったとき、その山々を見ながら忽然と神を悟った話をしてくれた。その時の彼の眼は、不思議なほど輝いていた。彼の全身から確信がほとばしり出ていた。思えばシュバイツァーがオリゴ川を汽車で渡った時、大平原の向こうに沈む太陽を見ながら忽然と悟ったように、彼は悟ったのだ。

 私が妻と結婚した時、私は神を知っていた。死後の世界の実在もわかっていた。そう、知っていたのだ。あれほど長い間、信じられないと呻いて模索していたのに。どうして私は神を知るようになったのか。いつから私は変わったのか。記憶をいくら探しても、その時が見つからなかった。

 私は、アピさんの個人リーディングを申し込んだ。アピさんはまだ30歳くらいの若い小柄なやせた女性だった。しかし心の底を打ち破り源とつながっている人だった。悟った人、覚醒した人だった。私はずっと持ち続けていたその質問をぶつけた。アピさんは、しばらく瞑想した。その答えは思いもよらない答えだった。

 「あなたは、ウォークインなのです。」

 まさか。私は、ウォークインのことを本で読んである程度知っていた。ドランバロ・メルキゼデクや奇跡の紅茶のジェイソン・ウインターがウォークインだった。

 「別の魂があなたの肉体に入ってきたのではありません。あなたのもっと高い次元のあなたが入ってきたのです。それは、この時代に目標を達成するために、今までのあなたではもう間に合わないということが分かったので、あなた自身の高い次元のあなたが肉体に宿ったのです。そういうのもウォークインというのです。」

 私には、思い当たることがあった。それは思い出すのも苦々しい経験だった。その頃、ニュースではなぜか頻繁に、信号無視をした車が衝突し、死亡者が出たことを報道していた。そのニュースを耳にするたびに、私の心は疼いた。ものすごい後悔の念が押し寄せて来るのだった。

医学部を卒業した直後だった。夕方、私は母が所属する修養会に出席した。若い出席者の女性を車で送ってあげるように頼まれた。私は免許を取って少し運転に慣れた頃だったので、喜んで引き受けた。それは国道1号線だった。何を思ったのか私は彼女に言った。

「僕は信号無視をしても大丈夫なのだよ。」

前方の信号は赤だった。私は、そのまま国道1号線を横切った。上下3車線ずつ、6車線の国道を私は躊躇なく横断した。何も起きなかった。そして、私は忘れた。

その時の思い出が、突然に湧き上がってきたのだ。何も起きないほうが奇跡だった。夜9時ごろだっただろう。そんな時間帯に、よりによって国道1号線を信号無視することは、自殺行為そのものだった。記憶がよみがえるたびに、深い後悔にさいなまれた。神に許しを請い、自分を責めた。今の私ならわかる。私は、死んでもよいと思っていたのだ。それほどまでに、母に対して痛烈な反発心を抱いていた。

 アピさんのリーディングを聞いて、初めて私は理解した。あの時、私は死んだのだ。死んで霊界の深奥にたどり着いたとき、私はやり直したいと心底願ったのだ。そして、私の代わりに高次の私が降りてきたのだった。私は同じ肉体の中に存在していた。しかし、その前後で全く別人になっていた。それまでの私は、人生のあらゆる出来事に躓いていた。強烈な孤独と絶望の中で、かろうじて生きていた。ところが、その後の私は軽やかだった。思ったことを簡単に実現した。私には自分のカルマが見えていたし、人生の設計が見えていた。そして、喜んでそのカルマの試練に挑戦した。

それでも、試練は厳しかった。新しい私ですら、カルマの罠に落ちた。そして、苦悩の10年間を、地を這いつくばるように過ごした。それにもかかわらず、とうとう課題をこなすことができた。

 自分の人生の軌跡を理解できた時、私はこの時代の深い意味を知ることができた。まさに、人類歴史の終着点に私たちは立っているのだ。

7.グレイ

 平成16年、妻と私はバシャールの講演会に参加した。バシャールとは人類の未来形、今から3000年後のエササニという惑星に住む存在だった。バシャールをチャネルするダリル・アンカは、今の彼と違って当時は内気で口数の少ない青年だった。演壇にダリルが通訳と一緒に上がり、簡単な挨拶をした後、瞑想する。程なくバシャールが現れるのだ。

「はい、皆さんこんにちは。」スピーカーが割れるほどの大きな声で彼は挨拶する。やせ形で小柄なダリルが、筋骨隆々としたマッチョへと変貌するのだ。鼻息の荒いものすごく深い呼吸をしながらバシャールは語りだす。深遠な物語に会場の私たちは一瞬のうちに引き込まれていくのだ。

 講演の後、質疑応答が始まった。バシャールは決して目を開けない。声のする方向に向いて対話をする。最初に質問した男性は、やせて背の高い暗い感じの青年だった。

「私には、宇宙人に誘拐された記憶があります。思い出すたびに恐ろしく、不快な感覚にさいなまれています。彼らはどうして私にこのようなことをする権利があるのですか。」

彼はいわゆるアブダクションの被害者だった。バシャールは、グレイと呼ばれる宇宙人について説明した。彼らは、物質的な科学に没頭し、闘争に明け暮れた挙句の果てに、ものすごい恐怖に直面するようになった。

「その恐怖から逃れるために、自分たちの遺伝子から感情を取り除いてしまったのです。その結果彼らは恐怖を感じなくなりましたが、その遺伝子操作の結果、生殖機能も失ってしまいました。現在の彼らは、クローン技術によって生き延びていますが、このままでは自分たちの種族が滅亡してしまうことに気づいたのです。彼らの一部が、宇宙をくまなく探索した結果、今の時代の地球人を発見したのです。地球人の遺伝子を彼らの遺伝子と掛け合わせることによって感情と生殖能力を復活することができるのです。」

 青年は満足していない様子だった。

「それはわかるのですが、どうして自分は誘拐による恐怖を感じなくてはいけないのですか。ものすごく恐ろしい感覚から抜け出すことができないのです。」

バシャールは説明を続けた。

「グレイは、実は人間なのです。物質文明に執着し続けたあなた方が未来にたどり着いたのがグレイなのです。同じ種族なのです。だから彼らはあなた方の遺伝子を使うことができるのです。あなたの意識では気づかないかもしれませんが、あなたは魂のレベルでそのことに同意しているのです。分かりますか?」

「今、グレイやゼータレクチュエルなどの存在たちが、人間と交配してハイブリッドを作っています。私たちも、同じようにこの時代に人間と交配して生まれたハイブリッドの系統なのです。だから、私たちは皆さんにとても感謝しています。皆さんのおかげで私たちが存在しているのです。今チャネルをしているダリルは、私の過去世です。私は人間として生きる経験を積むことによって、こうして皆さんを助けることができるようになったのです。私たちの活動は、皆さんに対する恩返しでもあるのです。」

 青年は、まだ不満そうだったが分かりましたと席に着いた。

 次の週、妻と私はエクトンの日光リトリートに参加した。1泊2日の短いリトリートだった。参加者はわずか7人程度だった。エクトンもバシャールと同じように人間ではない存在だった。リチャード・ラビンを通じて私たちに語りかけてくれた。リチャードは、金髪で背の高い美しい青年だった。優しい物腰、静かな語り口だった。エクトンは、いまだかつて人間として生まれたことがない宇宙存在だった。いわば天使だった。

 通訳とリチャード、そして参加者全員が一緒に夕食を囲んだ。なんとそこに、あの誘拐された青年がいた。私は、バシャールの感想を彼に聞いた。彼は、一生懸命自分を癒そうとしていた。再び誘拐されるのではないかという恐れを抱いていたが、反面もう大丈夫なのだと感じ始めていた。夕食後、私たちはリチャードの部屋に集った。エクトンが一人一人の質問に答えてくれた。

 妻は、霊能力を発揮し始めていた。しかし、それを実際に活用することをためらっていた。エクトンは、妻を絶賛した。「あなたは大地の母です。4人の子供を立派に育て上げ、なおかつあなたには素晴らしい能力があります。あなたが成功しないなどということはあり得ません。あなたの感ずるままに進んでください。」

 私の番になった。私は今の自分にとても満足していると言った。自分がたどってきた過去の生き方を誇りにしていると言った。するとエクトンが言った。「過去の自分? そんなものを誇りにして、どんな意味があるのか?」手厳しいアドバイスだった。

 私は、ダリルの本を読んでいた。それは、キンバリーという女性とダリルとの共著だった。日本語に翻訳されていないので、英語版で読んだ。そこにはダリルの描いた美しい挿絵が満載されている。あの青年と同じようにキンバリーはグレイに誘拐された。彼女は、恐ろしく不快な感覚にさいなまれていたが、何があったのかを思い出せなかった。

その時、ダリルと出会った。ダリルは彼女の求めに応じて彼女を退行催眠にかけた。すると、彼女はグレイに誘拐された様子を語りだした。宇宙船に連れ去られ、そこで彼女は妊娠させられた後、地上に戻された。彼女は何度も宇宙船に連れていかれ、そのたびに記憶を消された。そして、ついにハイブリッドの赤ちゃんを産んだ。本には、その一部始終が描かれていた。

 私はアブダクションについて調べてみた。1980-90年代、それは多くの人の目に留まるほどたくさんの事件が起きていることが分かった。さらに驚くべきは、アイゼンハワー大統領がアメリカ国民に宇宙人の子供を産む女性を募っていたという話だった。

「やりすぎ都市伝説」では、ハイブリッドの女性がインタビューを受けていた。驚くべきことに、彼女の母親はアイゼンハワー大統領の呼びかけで宇宙船に乗った女性だったという。

アーディ・S・クラークは、インディアン居留区の人々をインタビューして、ハイブリッドの目撃談を報告している。すでに実に多くのハイブリッドが私たちの身の回りで生活しているのだ。

昨年2020年、アメリカ国防省がUFOの映像を公開した。NHK特集番組で、ビゲロー・エアロスペース社の社長は、「あなたの隣に宇宙人がいる。」と言っているが、それは事実だと私は思う。

 最近は、アブダクションの話を耳にしない。ドランバロ・メルキゼデクは、こんな風に説明している。マヤ暦の1万3000年の周期が終わり、人類の保護者はチベットの存在から、ペルーの若い女性に引き継がれた。彼女がエジプトの大ピラミッドの下に隠されていた円盤を活性化させて引き上げた。それによってグレイたちはアブダクションができなくなってしまったのだと。私は、ありふれた日常生活の背後に壮大な物語が進行していることに、徐々に気づき始めた。

8.並行宇宙をジャンプする

 私のわずかな経験の中でも、人類は明らかに並行宇宙をジャンプしながら歴史を進めていた。そう考えなければ理解できないようなことがたくさん起こっている。昭和60年(1985年)、映画『バックトゥザフューチャー』が大流行した。この時、人々は直線の時間軸で歴史をとらえていた。主人公のマーティは、過去を変えてしまわないように細心の注意を払った。もし、マーティの両親が出会っていなければ、彼は現実世界から消えてしまうのだ。私たちは、ハラハラドキドキしながらマーティとドクの物語に陶酔した。

 しかし、平成28年(2016年)に日本で大ヒットした『君の名は』では、主人公たちは二つの並行宇宙を行き来した。パラレルワールドという概念が人類にとって当たり前のものになった。理論物理学では、10の500乗の並行宇宙が存在するという。それはほぼ無限大の数だ。

 昭和61年(1986年)芹沢光治良は『神の微笑』を発表した。90歳の光治良が、地上と霊界を行き来し、親神様の計らいをともに経験する物語だ。次々と発表される物語の中で、親神様はソ連のゴルバチョフとアメリカのレーガンを導いていた。当時鉄のカーテンと呼ばれたソ連が崩壊するとは、誰も予想だにしない時代だった。しかし、平成元年(1989年)ベルリンの壁が崩壊すると、ドミノ倒しのように東欧が雪崩を打って崩壊し、平成3年(1991年)ついにソ連邦が崩壊した。世界中が歓喜に沸いた。しかし、光治良の愛読者たちはもっと驚いた。崩壊が始まる何年も前から知らされていたからである。

 昭和48年(1973年)五島勉が『ノストラダムスの大予言』を出版すると、日本中にノストラダムスブームが起きた。人類滅亡のシナリオがおどろおどろしく喧伝された。難解な四行詩は人々の興味を引き、未だに様々な解釈が行われている。しかし、ドロレス・キャノンは退行催眠療法による変性意識状態を使って、16世紀のノストラダムスと直接対話をした。中世に生きたノストラダムスは、常に宗教裁判の脅威にさらされていた。そのため様々な暗喩を用いて予言を四行詩に託した。中世から未来を見通した時、第3次世界大戦が起こり、人類は滅亡の危機にさらされる。ノストラダムスは予言を通じて人類に警告を発したのだ。人類は西暦2000年、最悪のシナリオを回避した。

 バシャールがある時面白いことを言っていた。かつて人類は1963年(昭和38年)にJFケネディ大統領が暗殺されていない歴史を選択していた。ところが、そのシナリオを書き換えたと言うのだ。ケネディは、UFOに関する情報を開示しようとしていた。そして実際に開示したのだ。ところが、人類はその情報を冷静に受け止められなかった。人々はパニックに陥り、宇宙人との戦争という究極の恐怖の挙句に自ら滅亡するシナリオを突き進んでしまった。そこで、ケネディを暗殺し、UFO情報を開示しないシナリオに変更したのだという。

 1万3000年前、大洪水が起き大陸が沈没して、アトランティスが崩壊した。沈没を逃れて多くのアトランティス人が世界中に逃げた。しかし、沈没と同時に人類意識のグリッドが崩壊してしまうことが分かっていた。地球の表面に張り巡らしたグリッドがなければ、人類はキリスト意識を保つことができない。グリッドの崩壊とともに、あれほどまでに進化した人類はすべてを失い、毛むくじゃらの野蛮人と化してしまうのだ。野蛮人が文明を理解できるまでには、7000年の月日が必要であった。さらに、6000年の後に人類はもう一度キリスト意識を復活させなくてはならない。もしそれに失敗すれば、次のサイクルが訪れる2万6000年後を待たなければならないのだ。アトランティス人たちは、キリスト意識のグリッドを復活させるために、地球上のグリッドの交差点に巨大な石を用いて遺跡を建設した。エジプトのピラミッド、イギリスのストーンヘンジ、マヤ文明のピラミッドなど世界中に散らばる遺跡はすべてグリッド上に建設された。

 この物語は、『神聖幾何学』を著したドランバロ・メルキゼデクの説である。ドランバロたちは世界中の遺跡に、その遺跡固有のクリスタルを設置した。ドランバロによると6000カ所の遺跡が息を吹き返した。こうして、人類は再びキリスト意識を保持するグリッドを手に入れたのだ。

 『神々の指紋』のグラハム・ハンコックは、世界中の遺跡を訪問しあまりに精密な設計、深い意図を読み取って人々に紹介した。現代文明をはるかにしのぐ高度な文明がかつて存在したことを証明しようとした。それは、ドランバロの話とあまりにもよく一致していた。

 私たちは、平成16年ドランバロのワークショップに参加した。ワークショップの目的は、本来人体の周囲に存在しているマカバと呼ばれるエネルギーフィールドを取り戻すためだった。それはちょうど渦巻銀河を横から見たのと同じ形をしていた。そう、宇宙には一つの原理しか存在しないのだ。それがフラワーオブライフだった。3次元的図形の中に、プラトンの5つの正多面体がすべて含まれていた。ドランバロは、この神聖幾何学の知識をすべてトートから教えてもらったという。トートは、エジプトの神殿にトキの姿で描かれている、エジプト歴史の記録保持者だった。数千年の時を超えて、トートはドランバロの前に姿を現した。

 トートは、かつてギリシア文明ではヘルメスと呼ばれていた。アルキメデス学派では、神聖幾何学は門外不出の秘密であった。そして、トートはレオナルド・ダビンチにも現れた。ドランバロは、トートから学んだ神聖幾何学模様と全く同じ図形がダビンチの習作の中に描かれていることを発見した。そして、ダビンチの描いたウィトルウィウス的人体図の本当の意味を解明した。トートは、ニュートンの前にも姿を現したという。ニュートン物理学の完成度は、たった一人の人が短い人生で発見できるものではない。

 そのドランバロが私たちに教えた最後の瞑想は、『90度ターン』と呼ばれている。2013年私たちは海部仁美さんからそれを学んだ。人類歴史が終わる日、『90度ターン』の瞑想を学んだ者たちは、銀河にジャンプするように言われていた。私たちはこの地球から姿を消し、まったく新しい地球に新生するのだ。その時には、3日間のボイドを通過する。

 2013年ドランバロは、まったく新しいワークショップを開発した。それはグレースと呼ばれた。しかし、グレースは私たちの世界には伝えられなかった。ドランバロは、今までの教えとは全く違う内容になったと言い残したまま、私たちの前から消えてしまった。

 今になって思うと、ドランバロの『90度ターン』は、人類救済の最終手段だった。人類は予定の日までに覚醒することができず、地球は滅亡する。そのシナリオでは、わずかな人々だけがドランバロの技法を使って滅亡する地球から新生地球にジャンプするのだ。

 しかし、人類は覚醒の方向へと飛躍したのだ。最早、最終手段は必要なくなっていた。

 そこへバシャールからまったく新しい情報がもたらされた。

「人類の集合意識は、2017年重大な選択をした。」

意識の反転が始まったのだ。覚醒への大ジャンプに成功したのだ。人類滅亡のシナリオは完全に消滅した。

 ドランバロは、人類意識の反転が1995年におこると予測していた。『神聖幾何学』にその時を図示した。だが、何も起こらなかった。そして、マヤ暦が終わる日、2012年12月21日人類意識の反転が起こると多くの人が予想した。だが、何も起こらなかった。しかし、ついに2017年反転が始まった。

 こうして、私の眼には人類は次々とより高い並行宇宙へと乗り換えている。

 2021年1月20日トランプ大統領が世界政治の舞台から姿を消した。マシュー君やブロッサム・グッドチャイルド、Qアノンたちが予言した「世界緊急放送」は起こらなかった。それはあたかも光の世界の計画がとん挫したような印象を多くの人に与えた。しかし、私の眼にはさらに多くの人々が覚醒できる、より高い並行宇宙に人類はジャンプしたと見える。

 2019年1月、並木良和先生が私たちの前に現れた。私が学んできたすべての知識を携えて彼は現れたのだ。私は狂喜乱舞した。そして実際に会った瞬間、私の予想をはるかに超えた存在だということが分かった。まさに歩くブッダだった。矢作直樹先生は、「並木先生が人間なら、私はサルです。もし私が人間なら、並木先生は神です。」と本気で言った。

9.歴史の終着点

 どうも現在は、人類歴史の終着点のようだ。歴史は、私たちが学んできたような直線的な時間をたどってはいなかった。あらゆる瞬間に無数にある並行宇宙の間を行き来しながら、進行していた。一人の人間自体が多次元的に存在している。それもこの瞬間に3次元、4次元、5次元、6次元、、、と、それぞれの自分が存在していて、活動している。ただ、私という意識は、3次元の今という時間に焦点を当てて経験しているのだ。もちろん、その3次元の中にも無数の階層があって無数の自己が存在している。ただ、残念ながら私たちの意識はあまりに狭いので、同時に一つの自分しか意識できないだけだった。

 天才は、多次元的な能力を発揮することができる。将棋の羽生善治九段は、同時に10人と将棋を指すことができる。霊界通信の中で、エリック君は霊界で進化するにつれて、一度に10人の話を聞いて同時に返答することができるようになったと語っている。それは、天才だけの特殊な能力ではなく、私たちが意識を拡大すれば、だれでも獲得できる能力のはずだった。

 創造の初め、源だけが存在していた。源の生み出すものはすべて完全であり、光に満ち満ちていた。至福に満たされ、歓喜に満ち溢れていた。しかし、すべてが光であったなら自分が光であることがどうして分かるだろうか。そこで、源は大天使ルシファーに源ではないものを創造するように命じた。光は闇があってこそ、自分が光であることが分かる。善は、悪が存在することによって自分の本当のすばらしさが分かる。歓喜は苦悩があって初めて感動が生まれる。愛は不安があって初めて珠玉のエネルギーを発揮する。

 こうしてルシファーの実験が始まった。私たち人間は神の光で創造されたが、自分が神であることを忘れた。そして、源とつながれ、源から送られる光と愛のエネルギーで存在していることを忘れた。魂の渇望が始まった。3次元世界のどんな宝を手に入れても、魂の飢えを癒すことはできない。どんなに素晴らしい冒険に出かけても、どんなにその冒険に夢中になっていても、何かが足りない。それは羅針盤のように源を指し示している。そして今、源に帰る時が来た。源から遠ざかり、源ではないものを創造しつくした私たちは、魂の渇望に従って源へ帰る時を迎えた。

 源は、ルシファーに帰還を命じた。ルシファーは、ルシエルと名前を変えて全存在に源へ帰還するように誘っている。こうして私たちは歴史の終着点に到達した。源ではないものに向かって振られた振り子が、反転して源へ戻り始めたのだ。

しかし、終着点の壁を突き破ってさらに進もうとする者たちもいる。例えばグレイだ。だがその先はないことに気づいた彼らは、終着点である現在の地球を発見して戻ってきた。私たち人類も、人類滅亡のシナリオを何度も書き直してきた。なぜなら今が終着点だからだ。

すべての人に自動的に意識の反転が起こるのだろうか? そうではない。私たちに自由意志があるために、反転も自ら選択しなくてはいけない。反転するためには、心にため込んできた源ではないものを断捨離する必要がある。反転し源へ戻ろうと決めること、それが目覚めの選択だ。断捨離の方法が、統合だ。

善と悪、光と闇、愛と不安、高いと低い、高価と無価値など相対的に分離していた概念を、光一元に統合していく作業が必要だ。これが自分だと思い込んでいたものを手放し、創造の初めに戻る作業だ。

すべての人が無意識に統合を始めている。だが、意識的に取り組めばもっと早く源に戻ることができる。苦悩が去り、日々光のエネルギー量が増加していることを実感できる。世界は混とんとして、闇が一層深くなっているように見えるかもしれない。しかし、夜明け前が一番暗いのだ。そして、夜明けはすでに始まっている。さあ、一緒に光へ戻っていこう。すべての人は無条件の愛そのものだ。至福と歓喜は人間の根源的な権利だ。発展に次ぐ発展、飛躍に次ぐ飛躍、冒険の旅に出かけよう。すべての人がいざなわれている。神に感謝。宇宙に感謝。源に感謝。ありがとう。

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